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キールからなぜ自分が婚約者として選ばれたか説明を聞いたあと、ヴィオラはキールに屋敷の中を案内してもらっていた。
屋敷は広く、どこもかしこも手入れが行き届いていて美しい。ヴィオラは食べている菓子パンやクッキーのカスが落ちてしまわないよう細心の注意を払って食べていた。
「ここが俺たちの寝室だ」
そう言って案内された部屋には大きなベッドがひとつ置かれている。
(ん?俺たちの寝室って、私も一緒なの?)
「え、えっと、寝室も一緒なのですか?」
「契約結婚とはいえ夫婦になるんだから当たり前だろ。寝室は一緒だが君個人の部屋もちゃんと用意してあるから安心してくれ」
キールの言葉にヴィオラは口をぱくぱくさせている。
「別に変なことはしないから心配するな。俺の魔力が安定するために側にいてもらわないと困る、それだけだ」
そうだ、キールの魔力が放出されてしまえば災害級の被害が出てしまう。それを阻止するためにヴィオラはキールと常に一緒にいなければいけないのだ。
「わ、わかりました」
動揺からなのかせっせと食べ物を口に頬張りながら返事をするヴィオラの頭を、キールは優しく撫でる。
(わ、わ、キール様に撫でられてる!?)
「悪いな、こんなことに巻き込んでしまって」
(こんな悲しそうで優しそうな顔もなさるんだ……)
意外な表情にぼうっと見とれていると、キールがそっとヴィオラの顔に自分の顔を近づける。
(え、え?な、何!?)
「なんかすごい甘い匂いがすると思ったら、君の匂いか。菓子パンとかクッキーとか甘いものばかり食べてるもんな」
すん、と鼻をかぐ音がしてからヴィオラの耳元でキールがそっと呟く。その良く響く声に思わずヴィオラの内側から何かがぶわっと沸き上がってくる。
ヴィオラから離れるとキールはヴィオラの顔を見て目を大きく見開き、フッと微笑んだ。
「噂ではリスのようだと聞いていたが、本当にリスみたいに小さくて可愛いんだな」
その言葉にヴィオラの顔はどんどん赤く染まっていく。それを見てキールはまた少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
夕食の時間になり、ヴィオラは目の前の食事に目を輝かせていた。
「口にあうかわからないが」
キールにはそう言われたが、食べてみるとどれもこれも美味しくてたまらない。
「とってもとっても美味しいです!ほっぺたが落ちちゃいそう!」
満面の笑みでそう言うとヴィオラは両頬にいっぱい詰めこんでモグモグと幸せそうに食べている。それを見てキールは笑いをこらえていたが、ついに大きな声で笑いはじめた。
「っ、はは、ははは!はー、悪い悪い。君は本当にリスみたいだな。そんなに慌てて食べなくても食べ物は消えたりしないからちゃんと味わって食べるといい」
くっくっくっと笑いながらそういうキールを、ヴィオラは頬を少し赤らめてぼうっと見つめてしまう。
(キール様って普段は無愛想で怖いけれど、こんな風に笑うんだ。すごい優しそう)
「なんだ?俺の顔に何かついてるか?」
じっと見つめられキールは不思議に思ってヴィオラに尋ねる。
「あ、いえ、そうやって豪快に笑うところを始めてみたので……なんだか嬉しくて」
「そ、そうか……それならいいが」
ふわっと心の底から嬉しそうに笑うヴィオラの顔を見てキールは一瞬固まり、すぐに目を反らして緩んでしまう口元を片手で隠した。
「俺はこれから執務室で少し仕事をしなければならない。湯浴みを済ませて先に寝ててくれ」
夕食を食べ終わった後、キールはヴィオラにそう言って席を立った。そしてヴィオラは言われるがままに寝る支度を済ませ、寝室のベッドの中にいる。
(先に寝てていいと言われたけれど、本当に寝てて良いのかしら?というか、後でキール様がここに来ると思うと何だか緊張して眠れないのだけれど……)
そう思っていたのだが、ヴィオラはいつの間にかあっさりと眠りについてしまっていた。突然立て続けに色々なことが起こって気を張っていたのだろう、緊張の糸が途切れたのかすっかり寝入っている。
月がすっかり空の真上に上がった頃、キールは仕事を終わらせ寝る支度を済ませようやく寝室へやってきた。寝室のベッドに腰をかけ、すやすやと寝息を立てて寝ているヴィオラの髪を優しく撫でた。
(昼間は一緒の寝室で緊張しているようだったが、こうしてすっかり眠ってしまっているところを見るとやはり疲れていたんだろうな。それもそうだ、色々と急に言われてしまっては頭も感情も追いつかないだろう)
キールは自分が黒豹騎士と巷で呼ばれていることを知っている。常に真顔で感情を見せず、そのせいで他者を怯えさせてしまうことも自覚していた。だが、それもわざわざ感情を表現することが無意味に思えているからだ。
三男ではあるが侯爵家の令息であり大魔獣を倒した英雄として好物件と思われたのだろう、たくさんの貴族とそのご令嬢から数多くの縁談の申し込みを受けてきた。
だが、キールが魔力放出の発作を起こすと知ると途端に怯え遠ざかる。勝手に近寄ってくるくせに勝手に遠ざかっていく人々の身勝手さに辟易し、いつの間にか感情を表すことをしなくなった。そうすることで厄介な人々との関わりを最小限にしてきたのだ。
魔力放出の発作があるにも関わらず、縁談を受けてくれたヴィオラ。魔力が枯渇してしまうことを避けるために食べ物を常に摂取し続けなければいけないが、そのせいで三度も婚約破棄を言い渡されたという。
縁談を受けると言った時も、一緒に歩いている時も、どんな時でも常に両頬を食べ物で膨らませモグモグと何かを口にしている。その姿がまるでリスのようだと巷では小リス令嬢などと囁かれているようだが、実物を見て本当に小さくて可愛い小リスのようだと思った。その光景を思い出し、キールはクス、と小さく笑う。
(案外俺と同じような境遇なのかもしれないな)
自分では自覚していないが、どうやらヴィオラの前では存外感情を表に出してしまっているらしい。立場は違えど似たもの同士、何か思うところがあるのかもしれない。
自然と表情が変化する相手など久しぶりすぎてキールはヴィオラに対して興味がわく。これからが楽しみだとキールは思い、またヴィオラの髪の毛を優しく撫でた。
朝目が覚めると、ヴィオラはベッドに一人で寝ていた。果たしてキールがいつ寝室へ来たのか、そもそも来たのかどうかもわからない。いつの間にか寝てしまっていた自分に驚き、不甲斐ないとしょんぼりしてしまう。
(キール様は騎士でお忙しいとは聞いていたからきっと朝も早いのね)
ヴィオラはぼんやりとしながらとりあえずベッドサイドに置いているバスケットの中からクッキーを取り出して頬張った。