紅の章 第六十六話 第一と第二
蕗伎は目を見開く美珠と祥伽にいつものように笑いかけて自分の馬の進路を左へ向けた。
馬は谷底へ落ちることを嫌がり、前足を持ち上げ騎乗しているものを落とそうとする。
けれど蕗伎は、蕗伎だけは何を嫌がることもなく、自然に谷底へと身を委ねた。
美珠を巻き込んだまま。
「いやああ!」
「美珠、蕗伎!」
祥伽は美珠の手を放すことなく、引力に引きずられてゆく。
けれど宙に投げ出された祥伽の体を、いや袖を誰かが引っ張った。 暗闇で金色に光る鎧は美しく思えた。
「暗守さん!」
「美珠様! 今引き上げます!」
男女三人という重さに耐え、引いていた暗守だったが、耐えられないのは袖のほうで、重みに耐えかね嫌な音をたてて破けてゆく。
徐々に三人の体が谷底へと近づいてゆく。
「うざいね。この期に及んで。もう落ちちゃおうよ」
蕗伎は口の端を持ち上げ腰に装着していた小刀を暗守の手に向けて投げつけた。
それは暗守の手ではなく握っていた袖を切り、美珠達三人はまた宙に投げ出された。
「美珠様!」
「暗守さん! きゃああああ!」
(嫌! 珠以! 珠以、助けて!)
谷底を落ちてゆく中でものすごい風を受、恐怖のために徐々に意識が遠のいてゆく。
(珠以。私今度こそ、だめなのかな)
美珠が意識を手放し、水にぶつかる少し前、水面に渦が巻き起こった。
そしてその水面は渦を巻きながら空へと伸びて行く。
落ちて行く美珠とその美珠を決して放さない祥伽をまるで自分から迎えに行くように。
そして二人の体を渦に吸い込むとそのまままた水面へと戻っていった。
「成る程、婚約者を探して入ったのか」
相馬は項慶から美珠と祥伽の話を聞き終えて顎に手をあてて考え込んだ。
「これで話は繋がったけど」
そんな中、外が騒がしくなり相馬は天幕から顔をだした。
聖斗が戻ってきたのだ。
手に持っていた兜には凹んだ跡があったが、体には傷一つなかった。
「『保護』できなかった?」
相馬の言葉に聖斗は水を頭からかぶると兜をかぶり直した。
「谷底に落ちられたそうだ」
「大丈夫です。僕の結界が発動できてます。衝撃は和らいでいますから。ご無事のはず」
目の前に水の入った甕を置いて左右の手を合わせて目を閉じていた魔希が顔を上げた。
「魔希、よくやった。結界の発動は私も見た。あの谷底に下りられるように魔法を使って欲しい」
次に現れたのは暗守だった。
「谷底に……」
相馬がどんどん深みにはまってゆく主にため息をつくと、項慶は足を踏み鳴らした。
「全く、祥伽と蕗伎は!」
項慶が吐き捨てるように言った名前に相馬は引っかかった。
「祥侘に祥伽。それだ!」
慌てて天幕へ戻ると自分の旅日誌を開く。
そこには祥侘と祥伽と言う名前が記してあった。
秦奈国に忍び入った時に町の人から良く対で聞いた名前だった。
そしてもう調べなくても頭の中から呼び覚まされていた。
「ってか、皇位継承権の第一順位と第二順位か! くそ馬鹿ボンたちめが! うちの姫よりも馬鹿だ! そりゃあ、狙われるはずだ!」
旅日誌を持って出てきた相馬は騎士団長二人に声をかけた。
「くそ馬鹿ボンもできれば保護してください、丁重に」
「了解した」
暗守と聖斗は静かに頷くと竜を操り陣から出て行った。