紅の章 第五十三話 適度な距離
美珠は一人しゃがんで川に自分の顔を映してみていた。
今にも泣いて潰れてしまいそうなひどい顔だった。
けれどすっとその後ろに赤い目が現れた。振り向けなかった。
「お前、官吏になりたかったのか?」
そう尋ねて祥伽は隣に座り、美珠にこんがり焼けた魚を差し出した。反射的に受け取ったものの美珠は食べる気が起こらなくてただ魚を握ったまま水面を見つめた。
「うんん、そうじゃなくて……ね。そんなこと考えたことなかった。初めから受け付けてもらえなくて、どんなに頑張っても自分の力では叶えられない人がいるなんて」
「大方の人間は夢は見るだけで終わってゆく。それは自分の力だけではどうしようもないこともある」
そういわれると自分達の周りの騎士団長たちは若くして夢を掴んだ者たちのように思えた。
「俺の国も女性の地位はそんなに高くない。限られた職種で女性が上に立つことがあっても、女性の国王が立ったことはない。どんなに逼迫した場合でも、どこからか男をつれてきてそれが王になる」
美珠はそんな祥伽を見ようとすると祥伽は顔を反らして、水面を見つめた。美珠がまた水面に視線を戻すと水面で祥伽と目が合った。
「祥伽の国の王様はどんな人だった?」
「さあ、どうだったんだろうな」
「何それ? 他人事ですか?」
「王様なんて遠い存在だったからな。それに鎖国をしてたから、他国の状況も入ってこないし、比べる対象をしらない。でも、まあ、平和だったんだよな。今にして思うと」
「遠い存在かあ。この国はどうなんだろう」
自分にとっては甘い父だけれど、それが民にどう思われているかなんて考えたことなかった。
「まあ、その適度な遠さも必要だとは思うけどな」
「え? どうして?」
「国を治めるなら民と心を通わすことは必要だとは思う。国を守り民を守るという大義名分だって必要だ。けれどある程度、王に対する畏怖というものは必要だと俺は思う。民全員の話を聞いてかなえるなんて不可能な話だ。中にはとんでもないこと考える奴らもいるもんだからな」
最後に祥伽が顔を緩めたのを見て美珠も顔を緩めた。
「でも、まあこの国の教皇ってのには興味がある」
「どうして?」
「自分から民の声を聞いて回ってるんだろう? そんな人がいると思うと民にとってはありがたく尊い存在だ。どんな人か見てみたい」
美珠はそういわれたのが嬉しかった。
自分が会えなくて寂しい思いをしたのも、母が寂しい思いをしていたのも知ってる。
その代わり母はこの国でちゃんと自分の地位を築いた。
自慢であり目標だった。
(私にもできるでしょうか)
それでも今自分に信じられる人達がいる。きっと躓いても支えてくれる。
それは心強いことだった。
美珠と祥伽の後姿を蕗伎と項慶は眺めていた。
「何話してるのかな」
「あの二人はもともと、お知り合いなの?」
「さあ。ってかさあ、この国に女性官吏がいないのなら、慶伯の役所にはどうして女性官吏がいたんだろうね」
蕗伎の質問に項慶は眼鏡を上げた。
「この国には一人として正式な女性官吏はおりません」
「そう、君に似た人見たんだけどな」
「気のせいではありませんか?」
「かもね」
蕗伎はそう言って笑うともいできた枇杷を一個かじった。