黒の章 第二十六話 銀世界
「寒い。あわわわわ」
「豪雪地帯だから」
気を緩めると顎が震えてしまうような寒さに美珠は着ている真っ白い毛皮のコートを引き寄せる。
その向かいに座る相馬も馬車のなかで手をこすり合わせ、息を吹きかけ暖めていた。
馬車の外はもうずっと銀世界だった。
騎士達が吐く息もまたそれと同じ色。
「でも、外も気になる。えいっ!」
心を決めて美珠が窓を開くと尖った針のような、痛いほど冷たい風が流れ込んできた。
「寒い、美珠様! 閉めろ! 馬鹿姫!」
「だって、この寒い中、騎士の人たちは竜の上なのよ! 私だけ暖まるわけにはいかないじゃない」
騎士達は鎧の上に毛皮を着込んでいた。
けれど身の上にまとっているものは金属の塊。
凍てつく寒さの中なら、その温度もぐんと下がる。
(申し訳ない)
我侭に付き合わせたことを今更ながら反省しつつ、それでも雪へと視線を向ける。
(これ、これ)
早く雪に触れたくてたまらなかった。
そして一口かじってみたい。
子供のようにウズウズしていると、美珠の視線に気づいた暗守が高く積もった新雪を掬い取り、美珠の掌に雪を乗せてくれた。
それは見た目の美しさとは裏腹にさすような冷たさだった。
そっと頬を付けてみると、頬を凍らせた後、すぐ体温で解けて水へと変わってしまう。
「寒いよ、子供みたいなことしてないで、もう窓閉めて!」
「我慢のできないヒヨコだね」
「るっせえ! ガサツ女!」
美珠の隣にいた珠利が馬鹿にしたように言うと相馬はまた凝ったつくりの毛皮のコートを頭からかぶって丸くなった。
「お、見えてきましたよ」
魔央の言葉に美珠はすぐさま窓から顔を出した。
山間にその町はあった。
紗伊那の冬の観光地、芙栄。
良質の温泉から立ち上る湯気で、町全体が靄に包まれていた。
全景も何も分らない。
ただ卵の腐ったような、えもいわれぬ匂いだけが進むごとに身を包んでゆく。
「これ? 何の匂い?」
「硫黄です」
千佳という名の侍女はその匂いで故郷へ帰ったと思うのだろう、嬉しそうに目を輝かせ、声を弾ませていた。
「この匂いすいこんでいても大丈夫なの?」
「ええ、大丈夫ですよ。硫黄の温泉に浸かると冷え性、糖尿病、婦人病、とにかくなんにでも効くんですよ。兎に角、体も温まりますし」
町の入り口ではこの町の領主が家臣と領民を引き連れて待っていた。
騎士と馬車を見ると歓声が上がり、皆手を振ってくれる。
美珠も手を振り返すと馬車が停車し、開いた扉の向こうで男が駆け寄ってくるのが見えた。
馬車から一歩体を出すと、細い白髪の小柄な老人が慌てて跪く。
「ようこそおいで下さいました」
「お世話になります」
「さあ、どうぞ、お泊り頂く館をご案内する前に、まず私の館で皆様おくつろぎ下さい」
石造りの領主の家は、外観から想像できぬほど温まっていた。
いたるところに暖炉がおかれ、炎がまるで泉のように沸いていた。
美珠は通された客間のふんわりしたソファに座った。
途端、今までの行程の疲れがどっと押し寄せる。
体が少し温まり血流が戻ってくると、そのままそこで眠りたくなってきた。
このほどよい温度の中で、領主の緊張で詰まり続ける挨拶がまた呪文のように眠気に追い討ちをかける。
くっつきそうな美珠の瞳に気がついた千佳が、父に声をかけた。
「お父様、それくらいで。美珠様、お疲れなんですよ。二日も馬車に揺られたんですから。今晩、こちらでお食事を召し上がっていただけるのですから、お話はまたその時に」
「あ、ああ、そうだったな」
「では、お茶をお持ちしますね」
新入りの千佳が、同行した侍女頭に負けぬほど、実家の為か気を配ってくれた。
「いつもあれくらい気遣ってくれればいのですが」
丸い顔の侍女頭はそう言って美珠に笑いかける。
「ごめんなさいね。貴方にも迷惑かけるけれど」
「いいえ。お気になさらずに。私も食事の打ち合わせにいってまいります」
老領主が出てゆくと美珠は軽く相馬に目を遣る。
眠っていいかという瞳で。
「気持ち分かる、俺も眠い」
「少し、お休み下さい。我々は今晩のこともかねて警備の再確認をしておりますので、魔希、美珠様の護衛を」
「はい」
魔希の声を聞いた時にはもう美珠は眠りへといざなわれていた。
「団長の様子がですか?」
「ああ、何かが変だ。君は同期だろう? おまけに同じ年だ。何か聞いてるかと思って」
「いえ、別に何も」
杜国と国廣は副団長にあてがわれた部屋で声を潜めて話をしていた。
「姫様が温泉に行かれて寂しいとか、おいてけぼりで寂しいとか、いうわけでもなくてですか?」
「ああ、違う。他の団長とも距離が開いてるようだからな」
「それは杞憂では?」
「まあ、いい。下がってくれ、このこと、他言するな」
「はっ!」
杜国は部屋から出ると、少し立ち止まって思案した。
「同期ってもなあ? あっち団長だしなあ。でもまあ、同期なんだし、悩み事があったら聞いてやるのもありか、今夜酒でももって行ってやるか」
そんな時、廊下を歩いてくる女を見つけた。
子連れの女だった。
「お父さん、ここにいるの?」
「そうよ、お父さんここで働いてるの! とっても偉い人なんだから」
団員の家族が差し入れに来たり、見学したりするのはよく目にしていた。
だから、はじめは全く気にも留めていなかったが、近づくにつれて呼吸すらも忘れてしまう。
それは向こうも一緒だった。
暫くお互いを見合っていた。
杜国はそれから、懐かしむように声をあげた。
「玲那? 玲那じゃないのか? こんなところでどうした、お前」
「久杜坊ちゃん……」
「今までどうしてたんだ? どこにいた? 生活はちゃんとできてたのか?」
「お母さん?」
杜国はその言葉に息を呑む。
視線を下げると玲那と手を繋いだ子供と目が合った。
「玲那、まさか! この子は!」
「この子は違います! 違うんです。 あなた方とは関係がないんです!」
玲那は子供を抱き上げると、逃げるように走って去っていってしまった。
「玲那!」
こんばんは~ アクセスありがとうございます!
いよいよ待ちに待ったGWですね。
さてと、美珠様、銀世界にやってきました。
一面、雪世界。
ここで美珠に待ち受けているのもは。