紅の章 第十六話 お出かけ中
美珠は侍女たちに手早く着替えさせられて庶民とかわらない自分の姿を鏡で見ていた。
国明はグレーのシャツと黒いベスト、黒いズボンという庶民というよりはまるでギャンブラーといった風体に着替えさせられ、椅子に座っていた。
「では、失礼いたします。」
侍女の声に振り返って部屋に二人取り残されると、美珠はどうしていいのか分からなくて国明の隣に座ってみた。
「国明さん?」
呼びかけると国明は顔を上げて美珠の手を握った。
公人としての自分を吹っ切ったようだった。
「行きましょうか。折角です。」
「本当に?」
「ええ、その代わり絶対に俺から離れないで下さい。貴方を守ることが条件らしいですから。」
国明が手を繋ぐと美珠は顔を崩した。
(あたりまえじゃないですか!離れませんよ。)
町に出ると夕暮れの町は往来が激しくなっていた。
主なものは家に帰る、もしくは何処かで一杯引っかけてかえるそういった一日を終えようとしているものたちだった。
そんな町を田舎っぽいワンピースを着た美女とこれまた眉目秀麗な遊び人のような男が手を繋いで歩いてゆく。
きっと、周りの人には今からカモられる田舎女とカモる裏社会の人間に見えるかもしれない。
国明は出る前に美珠にそう囁いた。
美珠は意味が分からず頭の中で「鴨」を思い浮かべたが、国明が説明してくれることはなかった。
ただそんなどこかつりあいの取れない自分達を楽しんでいるようだった。
「どこか行きたいところがありますか?」
聞かれる前から美珠には行きたいところがあった。
「あ、あの。本が欲しいんです。経済の本とか、政治の本とか、簡単な本が欲しくて。」
すると国明は頷いて手を引っ張った。
「なら、こっちです。国で一番大きな本屋なら、あなたの欲しいものもあるはずです。」
一番大きな本屋は広大な面積だった。
美珠が見つけられず、迷路のような店内を見回していると、手を繋いだままの国明は案内板を眺め、場所に目星をつけ、美珠を後ろに従え歩いてゆく。
経済の本棚にはたくさんの難しい本が置いてあった。
美珠は目に付いた本をためしに手を伸ばしてとってみる。
中にはこれは数式だろうというような数字がたくさん書かれていた。
それだけで気が遠くなってゆく。
(何故ここに数式が、何故字の上に小さな数字がついているんです?)
本を元の場所に戻して心を落ち着ける。
(たまたま難しい本をとってしまっただけよ。)
隣の国明も手当たりしだい本を探していた。
美珠はそれを隣から覗き込んでみる。
「その数字の意味分かるの?」
「ええ、一応は。」
やがて一つの本を美珠の頭に置いた。
「これはいかがです?」
美珠は頭の上に乗せられた本をとると開いてみた。
字が少し大きく、図があるものだった。
少し読んでみて美珠はそれを抱えた。
そこにも数字は載っていたが、それでもその本を買うことにすぐに決めた。
「いいですか?それで。」
「珠以が選んでくれたから、これ読んでみる。」
他に理由はなかった。
国明は少し微笑み、先程見た案内板を思い出し、次の政治の棚へと引っ張ってゆく。
「久しぶりに珠以って呼んでくださいましたね。」
「え?」
「今。」
「あ…。ダメ?」
無意識の出来事だった。
言われるまで自分が珠以と呼んだことすら気がつかなかったのだから。
「だって、仕事中はやっぱり国明さんのほうが自分の気が引き締まるんだもん。珠以だったら、甘えちゃうし、口調もこんなふうに軽くなっちゃうし。人前じゃ、ダメかなって思って。だって珠以は国王騎士団長なんだもん。」
棚に着くと国明は本を選びながら目じりを下げた。
「あなたは色々我慢しすぎです。」
長い指で本を探しながらも続けた。
「俺は貴方に珠以って呼ばれて命令されると嬉しくてたまらないんです。だって貴方の特別な珠以なんです。貴方のことだけを考えて、貴方のためだけに剣を振るう。最高ですねそんな仕事。」
「でもそれは出来ないんでしょ?」
「ええ、『国』のつく名前を貰ってしまったので。王や教皇様、そして貴方を守り、国を守るのが今の俺の仕事です。でも、仕事から離れたら貴方だけの珠以でいたい。」
「休みのときはちゃんと休んでください。」
「貴方といることが俺にとっての癒しです。あった、政治はこれ。」
そして国明はそれを美珠に持たせた。
けれど美珠は本よりも、自分を赤面させることばかり言う国明の言葉を聞いていたかった。
けれどもう国明の頭の中はその本へと変化していた。
真っ白な表紙に分厚い本。
真ん中には
『初心者だったらこれを読め 政治編 』
実も蓋もない題名だったが、だからこそ、興味が沸いたのかもしれない。
「俺も訓練生を辞めて散々自暴自棄になって、悪態付き捲ってやっと真っ当に勉強しはじめて、躓いた時その本読んだんです。分かりやすく書いてあって、理解してゆくうちにこれを突き詰めて文官の道も悪くないなって、ほんの少し思ったんですが、やっぱり俺は騎士の方があってますね。美珠様もはじめはそれからにしましょうか。」
「うん。」
購入しに行くときになって初めて美珠はこの国の貨幣価値を知った。
それまでこの国の金貨、銀貨、銅貨は見たことがあったが、それが具体的にどのような価値があるのかは分からなかった。
購入し終えた本を両手に抱きかかえながら美珠は隣の背の高い遊び人の風体の男を見上げた。
「どうしました?」
「二人でこんな風に歩いたの初めてだから。嬉しくて。」
国明は美珠の言葉に緩めた顔を戻そうともせず、本を自分が持つと空いた美珠の手を握った。
「ねえ、行きたいところがあるの。いい?」
「どちらへ?」