黒の章 第十五話 告白
国明がやってきたのは思いの外、早かった。
いつものように全ての仕事を終え、眠る前のまったりとした時間ではなく、夕食後、相馬と共に工部の官吏から地理の勉強を教わっているときだった。
そして恰好も、いつも夜会う時のような私服ではなく、まだ甲冑を纏っていた。
(お仕事の最中に寄ってくださったのかしら?)
美珠はぼんやりとそんなことを考えながら戸口に目を向けていると、相馬が咳払いをしてその場を取り仕切った。
「案外早かったね。じゃあ、今日はここまでにしておこうか」
相馬の言葉に工部の役人は地図を巻いて立ち上がる。
「では、美珠様、明後日」
「はい。ありがとうございました」
官吏を見送ると、相馬も自分の紙とペンを纏めて体を伸ばした。
「さてと、お邪魔虫はたいさ~ん」
「いい、相馬、お前も聞いてくれ」
「え? 何さ、怖い顔して」
確かに国明の顔は見たこともないほど強張っていた。
昨晩見た光東より、昼間見た初音よりも。
「どうしたの? どこか悪いの?」
美珠が恐る恐る近寄ると、国明は何度も何度も首を振った。
不安が心をよぎる。
こんな暗い影を顔に作る人ではない。
いつも自分の前にいるときには優しい笑顔を向けてくれる人だった。
愛を囁いてくれる人だった。
「ねえ、国明さん?」
「子供がいます」
(どこに?)
意味が分からなかった。
この部屋に子供の幽霊でも見えるのか。
美珠は部屋の四方に目を配る。
相馬もまた眉間に深い皺を刻み言葉を理解しようとしていた。
「俺には今年七歳になる息子がいます」
国明は噛み砕いたように今度はそうつむいだ。
(どういうこと?)
それでも美珠はまだ意味が分からなかった。
国明が自分以外の女を見るわけが無い。
彼が愛しているのは自分だけなのだから。
そんな彼に子供なんかいるわけがなかった。
「変な冗談やめようよ」
相馬もまた引きつった笑みを浮かべていた。
笑い飛ばせなかったのは、きっと国明の顔が冗談を言う顔ではなかったから。
「七歳?」
美珠は次に単語を理解しようとした。
「ええ、十五の終わりにある女性と関係を持って子供ができました」
その遠まわしな表現が美珠にはまた理解できなかった。
「関係って何?」
その後、暫く言葉はなかった。
ただ美珠と相馬二人でぽかんと背の高い武人を眺めているだけ。
それもひどく、間抜けな顔で。
そんな時間が暫く続いた。
「俺には子供がいます。そんな、俺が貴方の恋人である資格はありません」
「待って!」
美珠はその後出てきそうな言葉が恐ろしくて、国明の口を手で塞いだ。
この後の言葉は絶対彼から言わせてはいけなかった。
「私、嫌よ。珠以を失うなんて嫌、やっと私達出会えた。愛し合えた。なのに離れるなんて嫌」
「そうだよ、国明、何で今なんだよ!」
相馬も国明へと詰め寄った。
けれど国明は美珠の細い手を力で引き離すと言い放った。
「彼女が帰ってきた。今、彼女が帰ってきた、だから責任を取る必要がある」
「嫌! 絶対に嫌! 嫌よ!」
美珠は国明を掴んで揺すった。
「この前だって愛してるって言ってくれたじゃない! どうして? 子供がいるのに、私に愛してるって言ってたの?」
「申し訳ありません」
「謝ってすむことじゃない!」
相馬は怒鳴りつけると、美珠と一緒に国明に掴みかかった。
けれど鍛え上げられた国明の体はピクリとも動かない。
相馬はただ必死に言葉にした。
叫んでるというほうが相応しいくらいの姿で。
「お前はこの国の跡継ぎの恋人だと、大勢の人間が知ってる! 美珠様を傷物にする気か! こんな大国の姫が騎士団長に捨てられるなんて噂でも流れちゃいけないんだ! おまけにお前は大貴族だ! なのに、なのに!」
先に声を上げて泣いたのは相馬だった。
大切な乳兄弟が、守るべき女性が誰よりも認めていた男に捨てられた。
それも考えてもいなかった手段で。
「嘘だ! こんなの嘘だ!」
美珠も相馬の泣き声で気がどんどん塞いでゆく。
脱力感に襲われてゆく。
「私と、その女の人、どっちが好きなの?」
国明は何も答えなかった。
「私以上にその人が好き? 私を守るって言ってくれてたのに、その人を守るの?」
言っている傍から涙が一筋頬を伝う。
「隠してればいいの! 誰にも気づかれずに、育てればいいわ! なんだったら私がその子を育てても」
「無理です。彼女の周りの人間はこの二日で俺の存在を知りました。それに光東や初音殿ももう知ってしまった」
美珠にとって聞きたいことはもう一つしかなかった。
「どうしたら、貴方と一緒にいられるの?」
「もう……それはできません、貴方の傍にはいられない。貴方とは結婚できない」
もう方法が無いのだと知って美珠はその場に座り込んだ。
「どうしてそのこと今まで言ってくれなかったの? 私のこと、本当に好きでいてくれたの? なのに黙ってたの?」
悔しくて、
悲しくて、
惨めで、
涙がたくさん落ちてゆく。
こんなことになるなんて思ってもいなかった。
ずっと国明は自分の傍で、息が止まるときまでいてくれるのだと信じて疑わなかった。
「嘘よ、こんなの嘘」
「明日、王と教皇様にもお伝えします」
「嫌! 私は認めないわ! こんなの嫌よ! 絶対嘘だもの! ねえ、嘘なのよね? また私が何かした? 懲らしめるための嘘なら、謝るから許して」
「今回のことで国王騎士団長の職を辞する覚悟です」
もう何も言葉が見つからなかった。
口を閉じているとずっと疑問だけが泡のように浮かんでくる。
けれど言葉にはできなかった。
「では、失礼します」
「国明!」
追おうとする相馬の服を美珠は掴んで引き止めた。
その服を掴んだまま、ただひたすら泣き続けた。
「美珠様、落ち着いて、兎に角、ね」
慰める相馬もまた何度も何度も涙を袖で拭っていた。
「ねえ、俺調べてくるから。こんなの嘘だよ。ね、美珠様、泣くのやめようよ」
けれど悲痛な声を上げて泣く美珠を見ていると相馬もただそこで泣くしかできなかった。