黒の章 第十話 楽しんでくることが命令だ
「あら? お兄様どうしたの?」
「初音、出かけるのか? そうか、今日公演の日だったよな。母さんと行くのか?」
「いいえ、あの、で、お兄様は? もしかして休みになったの?」
光東は首を振って、父の元へと届け物だと説明した。
初音は相馬との約束の時間ギリギリだったけれど、とりあえず兄の後をついてゆくことにした。
折角会えたのだから手の一つでも握ってやろうと思って。
けれど光東は初音と会えたというのに緊張した面持ちで社長室の扉を叩いた。
まるで騎士として罪人を捕らえる時のような顔をして。
帳簿をめくっていた父は光東を見ると、顔を緩める。
「どうした? 仕事は休みか?」
「王から父上に手紙を」
「なんだと?」
やたら豪奢な封筒を跪いて受け取った商人は初めての王からの手紙を暫く感慨深げに眺めていた。
が、子供達の視線に気がつくと、震えるぽっちゃりした手で封を切り、中の手紙を開いた。
そこには便箋一枚。
読んだ、商人は立ち上がり、息子に同封されていたチケットを差し出した。
「これ!」
声を上げたのは初音だった。
それは自分が相馬に渡したものだった。
「これに行って来いとのことだ」
「え?」
目を白黒させる光東に父は王の手紙を見せた。
そこには見慣れた王の字で、光東にこのチケットを手渡し、初音と出かけさせる旨が書かれていた。
末筆に
『忠臣、光東への褒美だ。楽しんくることが命令だ』
光東は王の愛に感動し、放心していたが、初音は鏡に映る姿を見て駆け出した。
相馬といくならとかなり気を抜いた格好をしていたが、兄と、大好きな兄と行くなら話しは別だ。
可愛くしないといけなかった。
「ちょっと、待ってて、あと二十分!」
「え? でも開演時間まで、そんなに」
「じゃあ十分」
階段を上る初音の叫び声を聞いて、光東は笑って椅子に腰掛けた。
「初音、頑張ってるみたいだね」
「ああ、よき跡取りだ」
父は笑みを向けて息子の前にどっかりと座った。
「で? お前はいつ初音と暮らすんだあの子ももう結婚適齢期だ」
「分ってるよ。でも初音もやりがいを見つけたんだろ? だったら、もう少し待っていてもいいと思う。やりがいを見つけたあの子を家庭に縛りたくないからね」
二階から初音の悲鳴が聞こえてくる。
どうやら服がきまらないらしい。
「あの子が仕事に生きがいを見つけなければ、今すぐにでも結婚して、家事に専念させてたのにな。まあ、こっちが好きに騎士をさせてもらってるんだ。文句は言えないけど」
暫くして初音は涙目で降りてきた。
どうやら納得のゆく出来ではなかったようだ。
「もう、ギリギリの時間なのよね」
「ああ、行こう」
差し出した光東の手を初音はしっかりと握って家を飛び出した。
相馬と美珠に感謝をしながら。
*
「寒い」
相馬は開演時刻を過ぎた頃、一人国立音楽院の外に座っていた。
「珠利の奴、楽しそうにして」
自分には決して向けない、珠利の笑顔。
その笑顔を年下の男に向けながら楽しそうに会場に入っていった。
「くっそ、負けないからな」
*
美珠は自室に戻ると、椅子に座って息を吐いた。
相馬も珠利もいない部屋は静かだった。
「何か私だけ、孤独」
そう思うとどうしても部屋にいたくなくて、外へとでて中庭の木の下に座ってみた。
国明の部屋の見える場所へと。
帰ってきたら、すぐに抱きつけるように。
月明かりの穏やかな光に照らされてただ待っていた。