紅の章 第百十話 言えない
意味が分らなかった。
何故これほど頭が持ち上がらないのか、胃がムカつくのか。
ただずっと寝ていたかった。
朝食も殆ど取らず、お茶だけをすする娘に両親は病気なのかと心配していた。
「疲れたのでありませんか? 従兄弟といえども、他国の王子、気を遣うのでしょう」
「いえ」
むしろそれはない。
祥伽は気を遣わずすごせる人間の一人だった。
(でも、すごく気持ち悪い、何、頭がぐらぐらする)
暫くすると例のごとく騎士団長たちが部屋へと入ってきた。
そこには珍しい人間がいた。
「おはようございます。今日は美珠様にお伝えしたきことがございまして」
「私に?」
麓珠はまるで娘を見るような優しい笑みを向け、美珠の隣に立った。
「時間が大分経ってしまいましたが、先日ご依頼を受けました家庭教師の件、選び出しました」
その言葉を聞いて美珠は以前そんな話をしたことを思い出した。
(そういえば、そんな話随分前にしたような気が)
家庭教師と聞いて、何故かとっさに項慶の眼鏡が思い浮かんだ。
自分の中で項慶のような女性に色々教えてもらうのもいいのではないか、と思っうようになったからだ。
けれど渡された紙にはいずれも男の名前と経歴が書かれていた。
「候補は現在三名、いずれも各省で有能なものばかりです」
そこには錚々たる経歴が書かれていた。
若い男ではなく中堅あたりを選んできたのは、評判の美姫に対して官吏が万が一、過ちをおこすかもしれないと警戒してのことのように思えた。
「ありがとうございます。あの、」
「しかし、美珠様も立派なお心がけ。我々も感服いたしております」
そう美珠に微笑む麓珠に言いたい一言が出なくなった。
(出来れば項慶を家庭教師の候補として考えて欲しい)
女性を城に招いて意教育してもらうことがこの国の社会で許されていることかが分らなかったからだ。
「あら、美珠、麓珠にそんなお願いをしていたの?」
「あ、はい」
「家庭教師ですか、そうね、それもいいかもしれません。私も遜頌には色々なことを教わりましたからね」
「そうでした。あのころに比べると教皇様は本当にしっかりなさった」
遜頌と教皇は目を合わせて頷きあった。
けれど美珠は書類を受け取り顔を伏せた。
項慶という有能な女性がいるということを伝えたかった。
そうすれば、夢を諦めざるをえなかった項慶の道が開ける。
けれどこれを断れば選ばれてる人だって経歴に傷がつくかもしれない。
困惑している美珠に麓珠がさらに声をかけた。
「本当は我が息子がもっと能力高く、美珠様にお教えできればよかったんですが」
麓珠が国明へと寄ってゆくと国明は顔をしかめつつ美珠の隣にしゃがみこんだ。
そして妹に諭すように優しく口を開く。
「美珠様、もしよろしければ仕事終わりにでも俺がお教えしますよ」
「それじゃあ、国明さんが大変でしょう? 少し、お時間いただいてもよろしいですか?」
「ええ」
満足顔の麓珠は頭を軽く下げて出て行った。
その後、皆本日の予定を確認していたが、美珠はその手に持った書類が重く感じて仕方なかった。
「国明」
主たちの部屋から出て、任務に就こうとする国明を止めたのは暗守だった。
青い瞳が国明をまっすぐ見ていた。
「あのような顔をされているままでよいのか?」
「確かに。ご無理なさっている顔だった。あの方は断るということをなさらないから」
魔央もまた国明を見ていた。
国明も分っていた。
あの顔は本当は嫌だといっていた。
けれど遠慮していえないのだと。
「少し、父上にお願いして話を保留にしてもらうことはできないのかい?」
「光東、それは騎士団長が口に出すことじゃない」
国明は父親だからと国の文官の長である父に甘えたくはなかった。
父は父、自分は自分なのだから。
立場も仕事ももう全く違う。
「美珠様は自分で思ったことを進言なさるのがいい」
「偉く突き放した言い方だな」
聖斗がため息混じりに呟いた。
「美珠様の相談には乗るつもりだ。けれど、俺がしゃしゃり出て美珠様を守ろうと進言すれば、美珠様は騎士に操られた能無しだという考えをもたれてしまう。美珠様だって厄介なことは避けてしまうようになられるかもしれない。それは良くないだろう」
「複雑な立場だな。守りたいのに守れないなんて」
光東は国明の背中を叩いて自分の騎士団へと歩いていった。
聖斗と魔央も何も言うことなくそのまま戻って行ったが、暗守は違った。
「お前は美珠様の夫になるのだろう?」
国明はただ銀まじりの瞳を見据えていた。
「そして愛し合っている。なら相談に乗って差し上げればよいのではないか? 美珠様も弱い方ではない。ただ今困っておられるのだろう。何か言いたいことをどう伝えればいいのか分かっておられないのだ。無理もない。まだ十六なのいだから」
「……分った、今晩にでもちゃんと美珠様の話を聞いてみる」
「ああ、それがいい」
暗守は兜の中の瞳を細くすると自分も団の方へと歩いていった。