五十一、過去のこと
―――それから数日後。
私はいつものように、張り見世で男性を待っていた。
「桜」
おばあが私を呼びに来た。
「はい」
「島田の若旦那が来られたよ」
「あ、そうですか。わかりました」
「桜ちゃんには馴染みの旦那がいて、いいなあ~」
私が立ち上がろうとしたら、椿がそう言った。
椿には、まだ馴染みがいなかった。
「椿にもできるわよ」
私はそう言って、作之助が待つ部屋へ行った。
「作之助さん、こんばんは」
私は障子を開け、中へ入った。
「桜」
作之助は優しく微笑んだ。
「似合ってるよ」
作之助は紅のことを言った。
「ありがとうございます」
この紅は、先日、作之助に買ってもらったものだった。
「さ、おいで」
私は作之助の横に座り、「どうぞ」と言って酌をした。
「そういえば、桜は、ここに来て何年になるんだい」
「二年でありんす」
「その前は、どこにいたの」
「故郷でありんす」
「そうか。桜のこと何も知らないから、つい聞いてみたくなったよ」
「私の過去のことなんて、拘らないでおくんなんし」
「まあね」
私は誰にも過去のことは話していない。
私がここへ来た時も、おばあはなにも訊かなかった。
椿もそうだ。
そもそも遊女は、それぞれに事情を抱えていた。
いちいち詮索しないのが、暗黙のルールとなっていた。
「それより桜」
「はい」
「三味線の稽古は捗っているのかい」
「まあ・・そうでありんすな」
「いつか聴きたいと思ってるんだよ」
「まだまだ作之助さんに聴いてもらえるような腕じゃないでありんす」
「難しいのかい」
「そりゃもう。もっと精進しないといけないでありんす」
「桜」
「はい」
「僕といる時は、廓詞じゃなくていいよ」
私は、この廓詞が苦手だった。
使い方もいまいち理解できていなかった。
なので話し方も、ぎこちなかった。
「実は、私も普通に話す方が楽なんです」
そう言って私は笑った。
「そうだよ。桜は方言もないんだし、そのままでいいよ」
「ありがとうございます」
「どれ・・」
作之助は横になり、私の膝に頭を乗せた。
「作之助さん、眠いですか」
「いや、桜の膝枕は心地いいんだよ」
「そうですか」
「寝てしまったら、ごめんね」
「いやだ、いいんですよ。どうぞ寝てください」
そして作之助は本当に寝てしまった。
こういうことも、二人の間では珍しくなかった。
私は作之助の頭にそっと枕を置き、布団をかけた。
私は厠へ行こうと部屋を出た。
そこに椿が階段を上がってきた。
「椿、お客がついたの」
「あ、桜ちゃん。うん、そうなの」
椿は嬉しそうに笑った。
そして椿は客が待つ部屋へ急いだ。
私が部屋へ戻ると、作之助は目が覚めていた。
「あら、お目覚めでしたか」
私はそう言って、作之助の隣に座った。
「桜がいなくなるからだよ」
「いやだ、作之助さん。心にもないことを」
「あはは。わかった?」
「わかりますって」
そこで私は酌をした。
「でも桜のことは好きだよ」
「私も作之助さんのこと好きですよ」
「なんか心がこもってないなあ」
「作之助さんだって」
そう、私と作之助は、互いに好意的には思っていたが、それ以上でも以下でもなかった。
「桜は好きな人いるの?」
作之助は「男として」という意味を言った。
「いませんよ」
「本当かい?」
「作之助さんは?」
私は作之助の問いに答えたくなかった。
「僕は・・うーん・・」
「あら、意中の人がいらっしゃるんですね」
「妬いてくれるのかい」
「いやだ、そんなんじゃありませんよ」
「僕の思いは、伝えたくても無理なんだよ」
「どうしてですか」
「もうこの世にいないからね」
「え・・」
「綺麗な人だった。優しくてね。でも三年前に流行病で亡くなったんだよ」
「そうでしたか・・」
「忘れたくても忘れられなくてさ。女々しいよね」
「まさか。そんなことありませんよ。お気持ちはわかりますよ」
「まあ、僕の話はいいよ。ちょっと横になるね」
作之助はそう言って布団に入った。
そしてあっという間に眠ってしまった。
私は作之助の話を聞いて、人はそれぞれに悲しみを抱えているのだと、今更ながらそう思った。
そして私は、城田さんのことを考えていた。
「桜ちゃん」
仕事が終わり、自室へ戻る時、椿が私を呼んだ。
「なに」
「今日のお客ね~、とってもいい旦那さんだったの」
「へぇ~よかったね」
「ここに来たくせに、私に何もしなかったの」
「えっ・・そうなんだ」
「お連れの人に、無理に連れて来られたって。それで話だけして帰っちゃったの」
「まあ、時々、そういう旦那はいるよね」
「なんかね、呉服屋やってるって言ってたわ」
え・・
まさか・・城田さんじゃないよね・・
でも・・先日、この花街に来ていたし・・店をここへ移すとか話してたし・・
「そうなんだ・・」
「ん?桜ちゃん、どうしたの」
「え・・どうもしてないよ」
「その旦那さんね、「カフヒーはありますか」って訊いたの。そんなのあるわけないのにね」
椿はそう言って笑った。
カフヒーって・・
呉服屋って・・
私は城田さんだと直感した。
やっぱりここへ店を移すのだと思った。
そうなれば、いつかは会ってしまう。
そんなの・・絶対に嫌だ。




