五十、新天地
―――あれから二年の月日が流れた・・
「桜ちゃん、私にも紅を貸しておくれよ」
鏡台の前に座っている私に、椿がそう言った。
「まったく、椿はいつもそうなんだから」
私は仕方なく、紅を椿に渡した。
椿は私より一つ上で、二十二歳だ。
私の桜という名前も、椿という名前も源氏名だ。
ここは東京にある「花屋」という遊郭だった。
私は二年前、剛三の手籠めにされ、店に戻ることはおろか、城田さんにも会うことができなくなり、誰にも告げずにここへやって来た。
剛三はあの日、事を済ませた後「もうお前には飽きた」と言った。
結局、剛三は、おもちゃを手に入れるまでは、泣き叫んだり、わがままを言って親を困らせ、手に入れた後はすぐに飽きてしまうという、子供と同じだった。
私は行く当てもなく、流れ流れてここへ辿り着いたのだ。
私はある意味、心を入れ替え、一からやり直そうと決めた。
けれども、自分の身体が剛三によって汚された事で自暴自棄になり、ここで働くことを決めたのだった。
そして・・とにかく一日も早く、剛三の「感覚」を忘れ去りたかった。
「あんたたち、もう時間だよっ」
ここにも「おばあ」がいた。
おばあは、私たち遊女が殿方を誘う場所へ移動しろと言ったのだ。
そこは「張り見世」といった。
格子で仕切られた部屋に遊女が並び、男性を誘うのだ。
「ほら、椿、行くよ」
私がそう言った。
「はぁーい」
椿は、年の割には幼い性格だった。
無邪気と言うのか、それがかわいくもあった。
「花屋」には遊女が何人もいたが、私は椿と一番仲が良かった。
私たちが張り見世で座っていると、興味深く男性たちが寄ってきた。
これはいつもの光景だ。
私は当初ここへ来た時、この張り見世での行いには抵抗感があったが、生きていくためだと割り切り、次第に慣れていった。
「旦那様~どうぞ入っておくんなんし~」
遊郭では「廓詞」を使わなければならなかった。
地方から来てる子もいたので、方言を隠すためだ。
私と椿は最前列に並んで、男性を誘っていた。
「へぇ~、この子かわいいね」
一人の男性が、椿を見てそう言った。
「旦那様~、どうぞお入りになっておくんなんし~」
椿がそう言った。
「きみ、こっちの子どうだい」
私を見てその男性は、別の男性にそう言った。
「僕は、そんなつもりで来たのじゃありませんので」
私はその男性の顔を見た。
う・・うそ・・
まさか・・
そう、その男性は城田さんだったのだ。
私は顔を背け、後ろへ下がった。
なんでこんなところへ・・
ここは、東京だ。
一体どうして・・
「城田くん、連れないことを言うんじゃないよ。ほら、かわいいよ」
その男性は私を探して「あれ?」と言った。
「さっきまでいたのに」
「だから僕はいいですって」
「そうか。じゃ、僕も止めておくよ」
「旦那様ぁ~そんなこと仰らないでおくんなんし~」
椿は客を逃がさないように、しつこく誘っていた。
「あ~あ」
城田さんたちは、ここを去り、椿は落胆の声を挙げていた。
そしてこの日は結局、客を取れなかった。
「桜!椿!あんたたち、またサボったねっ」
私たちはおばあの部屋で、叱られていた。
「だって女将さん~、桔梗姐さんや、牡丹姐さんには適いませんもの~」
椿は甘えた声でそう言った。
桔梗と牡丹とは、花屋で一位二位を争う売れっ子だった。
年は私より五つも上だったが、その美しさには私も椿も遠く及ばなかった。
「口答えするんじゃないよ。しっかり稼ぎなっ」
おばあは煙草に火を点けて、やれやれといった風にため息をついた。
「女将さん、それじゃ私たちはあがりますね」
そこに桔梗と牡丹がきた。
「はい、ご苦労さん」
おばあは稼ぎのいい二人に、上機嫌だった。
「桜、椿」
桔梗が私たちを呼んだ。
「はい」
「あまり女将さんを煩わせるんじゃないよ」
桔梗はニッコリ笑ってそう言った。
私は、桔梗は江梨子と似ている気がしていた。
気風がよく、情にも厚い、いい人だった。
それに比べて牡丹は大人しく、あまり話をしない人だった。
私はこの二人が好きだった。
「あんたたちも、部屋に戻りなっ」
おばあはそう言って、私たちを追い出した。
この「花屋」は、建物の構造が「水連亭」と似ていた。
一階が張り見世、受付、客を待たせる応接間、調理場があった。
二階は四畳半の客間がそれぞれ六部屋。
三階は六畳の客間がそれぞれ五部屋と、宴会などを開く十畳が一部屋。
上客は、三階へ案内されていた。
次の日、私と椿は、三味線を習いに出かけた。
遊女といえども、習い事も厳しく仕込まれていた。
「桜ちゃんは、小唄を会得したいんだよね」
歩きながら、椿がそう言った。
私は以前、江梨子が唄っていた『逢うて別れて』を習っている最中だった。
同じ習うなら、江梨子のように美しく、粋な雰囲気を習得したいと思っていた。
そして別の日には、日本舞踊も習わされていた。
「おや、桜じゃないか」
そう声をかけて来たのは、いわゆる私の馴染みである島田作之助だった。
作之助は私がここに来た頃、初めて客になった人だ。
性格はとても温厚で、私より三つ上の二十四歳なのに、とても落ち着きのあるいい人だった。
私がちょうど、紅を買いにでかけたところに、ばったり出会った。
「作之助さん。こんにちは」
「どうしたんだい」
「はい、買い物に」
「そうか。じゃ、僕が付き合ってあげるよ」
「お仕事はいいんですか」
作之助は酒屋の次男坊だった。
「いいんだよ。それで桜はなにを買うんだい」
「紅を買いに」
「それはぜひ、僕が選ばないといけないね」
「あはは、作之助さん。この間、私に下さった紅は派手でしたよ」
「あれは、失敗したんだよ。もっといいの選んであげるよ」
私と作之助は馴染みの関係でも、極めて割り切った、あっさりしたものだった。
店に来た時も、話をするだけという日も、珍しくなかった。
やがて通りの化粧品屋へ入り、私は色とりどりの紅を見ていた。
「桜、これなんかどうだい」
作之助は小町紅の、やや高級品を手にした。
「そんな高いものなんて、買えません」
「僕が買ってあげるよ」
「いえいえ、この間、頂いたばかりですから」
「いいから」
作之助はそう言って、小町紅を私にくれた。
「作之助さん、ありがとうございます」
私は店を出て礼を言った。
「いいんだよ。そのうち、また行くよ」
「はい、お待ちしております」
そして作之助は、家へ帰った。
ここの花街は、吉原と違って大門などなかった。
特に「花屋」は、遊女の出入りも比較的緩く、私はこうして時間を見つけては、外へ買い物に出かけることもできる、いわば自由な身だった。
「城田くん、この度は、ご足労、感謝するよ」
えっ・・
私は思わず声のする方を見た。
すると、通りの真ん中あたりで、先日の男性と城田さんが立って話していた。
「いえ、こちらこそ、お声かけ頂いて恐縮でした」
「それで、どうするかね。店をここへ移すかい」
「その話は、帰ってから考えてみます」
「いい土地だからね、即決が望ましいよ」
「えぇ、ぜひ前向きに検討します」
うそ・・
城田さん、店をここへ移すって・・
私は激しく動揺した。
そして来ないでくれと願った。
城田さんは二年前とほとんど変わらず、着流し姿が凛としていた。
私は胸が締め付けられそうになりながらも、視線を逸らすことができないでいた。
「じゃ、僕はこれで失礼します」
城田さんが男性に頭を下げていた。
そしてこちらへ歩いてきた。
私は思わず顔を背け、城田さんに見つからないように走って逃げた。




