三十五、一度だけの願い
それからの私は、いつ剛三から指名が掛かるのかと、気が気でなかった。
それもそのはずで、剛三はあれから何度か来店したものの、私を指名することがなかったのだ。
私は思った。
あいつは私の心を弄んでいるのだと。
私を怯えさえ、怯えきったところで指名するつもりなのだと。
私はあの日の剛三とのやり取りを、誰にも言うことができなかった。
言えば必ず問題化して、そのことが剛三の耳に入りでもしたら、初枝が襲われることを恐れたからだ。
江梨子に相談しようとも考えたが、江梨子の気性なら、きっと黙っていないだろう。
そうなれば江梨子に被害が及ぶ。
石を投げられる以上の被害が・・
私はたった一人でどうしていいかわからなかった。
もう諦める他ないのか・・
それともまた逃げ出すのか・・
そこで私は、いつ剛三に手籠めにされても悔いを残さないように、城田さんに会うことにした。
といっても、先日、「浴衣も櫛も必要ないなら処分してくれ」と言われた時の、城田さんの表情を思い出すと、必ずしも会ってくれるとは思わなかった。
私はまた、幸恵に頼み込んで、掃除を終えると出掛けることにした。
少し肌寒かったが、城田さんに貰った浴衣を着て、頭にはすげ櫛を差した。
「あれぇ、水樹、おめかししてどこへ行くのさ」
店を出る時、里に止められた。
「うん、ちょっとお買い物にね」
「それってさ~、城田の若旦那に貰った浴衣だよね」
「うん」
「もしかして、若旦那と会うの?」
「ううん、会わないよ」
「じゃ、なんで浴衣なんて着てるのさ。おまけにもう寒いし」
「これしか外着がないし」
「そうか。まあ詮索はなしだね。いってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
私はそう言いながらも、里を見ていた。
「どうしたのさ。早く行きなよ」
「里・・」
「え・・?」
「ううん、なんでもない」
「ちょっと、気になるじゃないか」
「ごめん。なんでもないの」
「ふーん・・」
「じゃ、行って来るね」
私はなぜ、直ぐに歩き出さずに里を見たのかわからなかった。
なにか言いたいような気もしたが、それがなにかわからなかった。
振り向くと里は店の前で、ずっと私を見送っていた。
里・・
助けて・・
里・・
そう。
私は助けてと言いたかったんだ。
でも言葉にできなかった。
私は大通りまで来て、城田さんのところへ行こうともしたが、なぜか躊躇した。
今さら・・会ってどうするっていうの・・
城田さんに助けてとでも言うつもり?
私の足は、自然と横浜港へ向かっていた。
長い時間歩き続けて、もうとっくにお昼が過ぎていた。
やがて港に着くと、大勢の人が往来し、港にはたくさんの漁船が停泊していた。
私はたった一人で、堤防のそばにあるベンチに座り、ずっと海を眺めていた。
このまま・・時間が止まればいいのに・・
剛三の"女"にされるのは、いつだろう。
明日かな・・
明後日かな・・
私は溢れる涙を拭うこともせず、ただ海を見ていた。
やがて夕日の沈む時間が訪れた。
もう帰りたくない・・
このまま・・消えてしまいたい・・
私はそう思ったとたん、自然と足は堤防の先まで歩いていた。
ここから・・飛び込めば・・
そう・・
もう死んでしまえば・・苦しみから解放されるんだ・・
私が一歩踏み出した時だった。
「水樹さん!」
振り向くと、城田さんがこっちへ走って来るのが見えた。
え・・なんで城田さんが・・
「水樹さん、こんなところでなにをしてるんですか」
私のそばまできた城田さんが、息を切らせてそう言った。
「なにって・・城田さんこそ、なぜここへ・・」
「水樹さん、今、飛び込もうとしてましたね」
「・・・」
「なにやってるんですか!」
「だって・・私・・」
「先日も変だと思いましたが、一体、なにがあったのですか」
城田さんは理由を訊き出そうとしたが、私は言わなかった。
「どうして何も話してくれないんですか」
そんなこと・・言えないよ。
言っても城田さんは、助けてくれない・・
いや・・これ以上誰にも迷惑かけられない・・
「城田さん・・」
「なんですか」
「どうしてここへ来たのですか」
「里さんが知らせてくれたんですよ」
「里が・・そうですか・・」
「若旦那にもらった浴衣を着てるのに、ちっとも嬉しそうじゃなかったって」
「・・・」
「水樹がおかしいって・・ね」
「そうだったんですか・・すみません」
「それで、どうしたのですか」
「どうもしませんよ。海が見たくなっただけです」
私は無理に笑って見せた。
「嘘を言ってはいけません」
「・・・」
「言ってごらんなさい」
「あの・・」
「なんですか」
「私のお願い・・聞いてもらえますか」
「お願い?」
「はい」
「それはなんですか」
「あの・・一度でいいですから、私を抱きしめてくれませんか・・」
「水樹さん・・」
城田さんは明らかに戸惑いを見せた。
「一度だけでいいんです・・」
「・・・」
「そしたら・・私は・・それでいいんです」
「水樹さん・・」
「ううっ・・ううう・・」
私はまた大粒の涙が溢れてきた。
「水樹さん」
城田さんはそう言って私を優しく抱きしめてくれた。
「うう・・うううっ・・」
「泣かないでください・・」
「城田さん・・」
「なんですか・・」
「私は、あなたが好きです・・」
「・・・」
私の言葉に城田さんは無言だった。
「でも・・もういいんです。私は城田さんにこうされただけで・・満足です・・」
「水樹さん・・」
「イギリスへ行かれるんですよね。どうぞお身体には気をつけてください」
「・・・」
「私も・・元気で働きます・・」
私はそこまで言うと、城田さんから離れた。
「願いを聞いてくれてありがとうございました」
「・・・」
肌寒い身体が温かくなり、同時に心も温かくなって、私は本当にそれだけで満足だった。
もうこれで、剛三に抱かれても、私は生きていける。
この日の思い出さえあれば、生きていける・・
私はそう心に決めて、城田さんに一礼して去ろうとした。
「水樹さん」
城田さんが私を呼び止めた。
「はい」
私は城田さんを見上げた。
「僕と逃げる覚悟はできますか」
城田さんは突然、そう言った。




