二十九、糸田家
翌日、私が水連亭へ帰ると、おばあが玄関先で待ち伏せしていた。
「水樹っ!こっちへ来な」
私はおばあに引っ張られ、おばあの部屋へ連れて行かれた。
「座んなっ!」
おばあは、私を突き飛ばすように座らせた。
「水樹」
「はい・・」
私は下を向いたまま返事をした。
「こっちを向きなっ」
そして私は顔を上げた。
「あんた・・よくも私の顔に泥を塗ってくれたね」
「・・・」
「今朝、お達しがあったんだよ」
「え・・」
「糸田の若旦那から、もう二度とこの店に来ない、それと常連客や一見まで来させないようにするとね」
「そ・・そんな・・」
「誰のせいだと思ってるんだい!」
「・・・」
「そこでだ。若旦那はお前が土下座して謝りに来れば、考えを変える余地はあると仰ってんだ。それと馴染みになることを約束すればその余地もあるとね」
どうして・・
なんでこうなるんだろう・・
剛三は、なんで私じゃなきゃいけないの・・
「それと!江梨子は解雇するからね」
「ええっ!」
「まったく・・長年、ここで雇ってやったのに、恩を仇で返すとはこのことだよ」
「それだけは・・待ってください」
「なに言ってんだい。あいつは裏切りものなんだよ」
「姐さんに私が頼んだんです。匿ってくれと頼んだのは私なんです」
「同じことさ!それで、このあと謝りに行くからね」
「・・・」
「いいかい!今度こそ胸に叩き込んでおきなっ。お前は逃げられないんだよ。借金返すまではここで働くんだよっ」
どうしよう・・
江梨子姐さん・・
仕事ができなくなってしまう・・
私のせいだ・・
でもっ・・私がなにをしたっていうの・・
どうしてこうなるのよ・・
っていうか・・これって現実なの?
夢なんじゃないの?
もう・・わからなくなった。
あの日、城田さんはなんで私をこの世界に送り込んだのよ。
これってどんな意味があるというの。
「あの・・」
「なんだい」
「私が若旦那に謝って、馴染みになれば姐さんを解雇しないでくれますか・・」
「まあ・・考えてらやらんでもないがね」
「そうですか・・」
「おい!幸恵!」
そこでおばあは嫁の幸恵を呼んだ。
「はい、なんですか。お義母さん」
慌てて幸恵が走ってきた。
「人力車を手配しな」
「どこかへお出かけですか」
「わかってんだろ、こいつだよ!」
幸恵は私を見た。
「それで・・どちらへ」
「糸田のところだよ」
「そう・・ですか・・」
「早くしなっ」
「わかりました」
そして幸恵は出て行った。
「汚いねぇ、その"なり"」
私は離れ用の着物を着ていたが、昨日の騒ぎで薄汚れていた。
「着替えを持ってくるから、待ってな」
おばあはそう言って部屋を出て行った。
もう嫌だ・・
現代へ帰りたい・・
マスターどうしてるかな。
パートの大窪さんも、元気なのかな。
私はもう、涙さえ枯れていた。
ほどなくして私は、おばあと共に人力車に乗り、糸田のもとへ向かった。
造船業を営んでいる糸田の家は、横浜港にほど近いところにあった。
「ここだよ、下りな」
私は人力車から下り、家の大きさに驚いていた。
糸田の家は、木造ながらも立派な建物だった。
大きな門を入ると、現代で言うところのアプローチがあり、やがて玄関についた。
「ごめんくださいまし」
おばあが声をかけた。
「はい」
中から女性の声がして、扉が開いた。
「突然、申し訳ございません。わたくし水連亭を営んでおります、井坂と申します」
「あ、ちょっとお待ちください」
どうやら女性は、お手伝いさんらしかった。
ほどなくして、恰幅のいい中年の男性が現れた。
「ああ・・これは旦那様・・」
おばあは、酷く恐縮していた。
「どうも。それで、井坂さん、なにか御用ですか」
「あの・・若旦那様はご在宅でしょうか」
「ああ・・剛三なら活動写真を観にでかけましたが」
「そうですか・・」
「どうかされましたか」
「いえ・・その・・」
そこで旦那は私を見た。
この人って・・糸田造船社長の寛二郎じゃないのかな。
私は軽く会釈をした。
口籠っているおばあの様子を見て、寛二郎はなにかを察したようだった。
「またうちの剛三が、迷惑をかけたんですね」
「いえ・・迷惑だなんて、とんでもございません。いつもご贔屓頂いております」
「井坂さん、いいんですよ。私にはわかります」
「・・・」
「よかったら上がりませんか」
「いえ・・ここで結構です」
「まあまあ、そういわずに」
そして私たちは寛二郎の厚意で、家に上げてもらった。
私たちが通された部屋は、十畳ほどの落ち着いた和室だった。
障子越しには庭が見え、鹿威しが時を告げるように音を鳴らしていた。
「それで、剛三は、なにをやらかしましたか」
上座に座った寛二郎は、やれやれといった風に訊いた。
「そんな、やらかしただなんて、滅相もございません」
「どうやら、そちらのお嬢さんに関係があるようですね」
寛二郎は私を見てそう言った。
「はあ・・まあ・・」
おばあは、とても言いにくそうにしていた。
「お嬢さん、なにがあったのか言ってください」
寛二郎は、おばあでは埒があかないと思ったのか、私に訊ねてきた。
「はい。失礼かとは存じますが、申し上げます」
「これ・・水樹」
おばあは私を制したが、私はこれまであったことを、全て寛二郎に話した。
そして、ここには詫びに来たことと、馴染みになることも。
「そうでしたか・・」
寛二郎は辛そうな表情をした。
「まことに面目もありません」
寛二郎は私たちに頭を下げた。
「旦那様・・よしてください。頭をお上げになってください・・」
おばあは、半ばうろたえていた。
「水樹さんと仰いましたか」
寛二郎は頭を上げて私を呼んだ。
「はい」
「剛三にはよく言って聞かせますので、今日のところは私に免じて許していただけませんか」
「そんなっ・・旦那様、許すだなんて、とんでもないです」
「そうでございますよ・・若旦那様には、またお越し下さるよう、お伝えください」
ほどなくして私たちは、家を後にした。
寛二郎って・・剛三と全然違うわ。
物分かりのいい人でよかった。
私はやっとの思いで、胸をなでおろすのだった。
けれども・・この後、とんでもないことが起ころうとは、誰も知る由がなかった。




