二十三、流行病
―――それから五日後の午後九時ごろ。
とうとう次の指名がきた。
もちろん剛三だ。
私はおばあに離れ用の着物を手渡され、「いいかい、くれぐれも粗相するんじゃないよっ」と、きつく念を押された。
この間の作戦は、もう通用しない。
剛三は・・「次はないよ」って言ってたし・・
逃げればいいんだろうけど・・そうなると、どのみち店は潰されることになる。
どうしよう・・
私はこのまま、あの気持ち悪い男の言いなりに・・?
嫌だ・・嫌だ・・
耐えられない。
徳利を持って調理場を出ようとした時、女子たちは憐れむような表情で私を見ていた。
うっ・・お願い、そんな目で見ないで。
盆を持つ手が、かすかに震え、徳利がコトコトと音を立てた。
清助も、助手の定吉も、気の毒そうに見ていた。
「水樹、ほらっ、しっかりしな!」
私は真知子に檄を飛ばされた。
「は・・はい・・」
私はそう言いながら、涙を流した。
「泣いてたら、若旦那の気分を害するよ。泣き止みな」
真知子は手拭で私の目じりを拭った。
「ほら、若旦那がお待ちだよ。行きな」
私は小さく頷いて、階段へ向かった。
「水樹・・」
後ろから里が追いかけてきた。
「え・・なに・・?」
私は足を止めて振り向いた。
「あんたさ・・もう覚悟を決めろよ」
「え・・」
「なんていうの、こんなのさ、一瞬で終わるんだよ。それにたくさん金を貰えると思って、開き直るんだよ」
里は、どこかしら言いにくそうにしていた。
「里・・」
「目を瞑って、ほんのちょっと我慢してりゃいいのさ」
言葉は乱暴だったが、これは里なりの励ましてあると察した。
「里・・私、嫌なの・・ううっ・・」
私はまた涙が出てきた。
「水樹・・」
「でも・・粗相をしたら、店を潰すって言われてるの」
「そっか・・」
「逃げちゃダメだよね・・」
「逃げるって・・あんた・・」
「わかってる。逃げないよ。店を潰されたら、里たちを路頭に迷わせることになるもんね・・」
「・・・」
「ごめん。じゃ、行ってくる」
私は階段を上がろうとした。
「ちょっと待って」
里に引き止められた。
「え・・」
「あんたさ・・城田の若旦那のこと考えてるだろ」
「えっ・・そんなっ・・」
そんなどころか、図星だった。
「嘘言ってんじゃないよ。顔に書いてあるって」
「・・・」
「わかった、それ、貸しな」
里はそう言って私から盆を引き取った。
「ちょっと・・里」
「あんた、具合が悪くなったことにしなよ」
「え・・」
「それも、流行病ってことにするんだよ」
「流行病・・」
「そしたら、さすがに糸田も無理強いはしないだろうさ」
里はクスッと笑った。
「それで・・里がこれを運んでくれるの?」
「うん。私が言っとく」
「上手くいくかな・・剛三は勘が鋭いし・・」
「それじゃ、あんた行きなよ」
「え・・」
「どうするのさ、行くのか行かないのか」
「えっと・・それじゃ、里、お願いできる?」
「ああ、わかった」
そして里は階段を上がって行った。
私はどうしようかと思ったが、この場で里を待つことにした。
しばらくすると里が下りてきた。
「里、どうだった?」
すると里は、笑いながら下りてきた。
「あはは。上手くいったよ」
「ええっ、そうなの?」
「なんかさ、明日、外国の貿易商人に会うんだって。だから帰るって言ってたよ」
「そうなんだ」
「でもさ・・また来るって言ってたよ」
「そっか・・」
「あいつ、あんたを”もの”にするまで諦めないつもりだね」
「・・・」
「まあ、今日のところは難を逃れたんだし、また考えればいいさ」
「里・・ほんとにありがとう・・」
「あいつ、私を指名してくれれば、たんまりせしめてやるのにさ」
里はまた、そう言って笑った。
「里・・」
「あんたさ、とりあえず自室へ戻りな」
「え・・」
「それで寝るんだよ」
「あ・・うん」
私は里に言われた通り、自室へ戻った。
そして布団を敷いて横になった。
里・・いい子だな・・
私は剛三の難を逃れたことよりも、里が私のために一肌脱いでくれたことが、なにより嬉しかった。
そして次の日、私はおばあに「医者へ行くよっ」と言われた。
私は仕方なく、おばあに連れられ、町医者へ向かった。
どうしよう・・
これって絶対にバレるよね。
「まったく・・間の悪いことだねっ」
おばあは、また私が剛三とそうならなかったことに、不満をあらわにした。
「すみません・・ゴホッ・・ゴホッ・・」
私はわざとらしく咳をした。
「単なる風邪だろ」
「はい・・そう思います・・ゴホッ」
ほどなくして着いたのは、「内藤医院」と書かれた場所だった。
「入るよ」
私はおばあの後に続いて、中へ入った。
「お世話になってます、井坂です」
おばあは受付でそう告げた。
え・・おばあたちの苗字は井坂っていうんだ。
初めて知ったわ・・
というか・・おばあの下の名前ってなんだろう。
椅子に座って待っていると「井坂さんどうぞ」と診療室から声が聞こえた。
私とおばあは、中へ入った。
「先生・・どうも、いつもお世話になってます」
おばあはそう言って頭を下げた。
っていうか・・女医さんだわ。
よかった・・
その女医は、色白で若くて美人だった。
そして白衣を着ているせいか、とても賢そうに見えた。
「このお方はね、ここの娘さんなんだよ」
おばあが私に説明した。
「それで、患者さんはこのお嬢さんですか」
女医が言った。
「はい、なんでも風邪を引いたようで」
「わかりました。井坂さんは待合でお待ちください」
女医がそう言うと、おばあは「よろしくお願いします」と頭を下げ、診察室を出て行った。
「それで?いつから悪いの?」
「ああ・・えっと・・昨日から・・」
ダメだ・・絶対にバレる・・
「はい、口を開けて」
私は大きく口を開けた。
女医は舌圧子で喉を確認した。
「うーん、はい。じゃ、胸を出して」
私は胸を出し、聴診器をあてられた。
「うーん、はい、しまっていいですよ」
女医は次に脈拍を計った。
「はい、いいですよ」
女医はカルテに診察結果を書いていた。
「なにかあったの?」
女医は書きながら私に訊ねた。
「え・・なにかって・・」
「嘘をつかなきゃならない、なにかよ」
げ・・やっぱりバレてる・・
「別に・・」
「安心しなさい。井坂さんには言わないわよ」
「ああ・・はい、すみません」
「私もね、水連亭の事情は知ってるの。だからおおよその察しはつくわ」
この先生・・お見通しなんだ・・
「でも私も医者だから、何度もってわけにはいかないの。今回限りだからね」
「はい・・すみません・・」
「それでお薬は栄養剤を出しておくから。それでいいね」
「ありがとうございます・・」
先生のおかげで、なんとか嘘がバレずに済み、私たちは医院を後にした。
「治療費、給金から引くからねっ」
おばあは歩きながらそう言った。
はあ~・・がめついわっ。
私は「はい」と小さく答えた。
そこで私は、城田さんとすれ違ったことに気がついた。
あ・・
思わず振り向くと、城田さんは内藤医院へ入って行った。




