二、名前
翌日、私は昨日の若旦那が来てくれないかと、胸を躍らせて仕事に就いていた。
今日は金曜日。
明日と明後日は休みだし・・
この店はオフィス街にあるので、土日は休みなのだ。
今日来ないとしたら、三日も逢えないんだよね・・
もし来てくれたら、名前くらい訊いてもいいのかな・・
「水樹ちゃん、悪いんだけどさ、また出前行ってくれる?」
店長が済まなさそうに言った。
この店は基本的に出前は行っていないのだが、店長の昔からの馴染みであるA社だけは例外だった。
「はい、いいですよ」
「今から会議があるんだって。悪いね」
コーヒーくらい自社で淹れればいいのに、ここのコーヒーが評判で、時には味が話題になることもあるようで、他社との会議でも一役買っているらしいのだ。
「五つだけど、大丈夫だよね」
「はい、平気ですよ」
私はトレーに五人分のコーヒーを乗せ、店を出た。
A社は店から二つ目の信号を渡ったところにあった。
受付の女性に、コーヒーを届けに来たことを知らせ、私は会議室へ向かった。
「すみません、コーヒーを届けに参りました」
五階の会議室の前で、来たことを知らせた。
するとすぐにドアが開き、女性の社員が「ありがとう」と中へ入るよう促した。
「えっと、五人分だから二千円ね」
女性が財布から二千円を取り出した。
「はい、ありがとうございます」
私はサイドテーブルにトレーごと置き、「後日、取りに伺いますので」と言った。
「いえいえ、こちらから届けるわ」
「そんな、いいですよ」
「いいのよ。どうせそちらへは行くんだし。ついでにね」
女性はニコッと微笑んだ。
「そうですか、すみません」
私は頭を下げて、会議室を後にした。
さてと・・戻るかな。
私はエレベータのボタンを押した。
ほどなくして、エレベータが到着しドアが開いた。
するとあの、若旦那が一人で乗っていた。
「あ・・」
私は思わずそう口走ってしまった。
すると若旦那も「あっ」という表情を見せてくれた。
「コーヒーを届けに来たの?」
なんと、若旦那から声をかけてくれた。
「あ・・はい。さっき届けたばかりです」
「それはご苦労様です」
「え・・そんな・・」
「下りるんでしょ?乗ってください」
若旦那は手で「どうぞ」というような仕草を見せた。
「あ・・はい、すみません」
私は慌てて乗った。
「おたくのコーヒー、とても美味しいですね」
「あ、どうもありがとうございます」
束の間の・・若旦那との時間。
お願い・・ゆっくり下りて・・
私はふと、若旦那の首に掛けてあるネックストラップを見た。
「し・・城田さんと仰るんですね・・」
「え・・ああ、そうですよ、城田浅緋です」
城田・・浅緋・・
なんて素敵な名前なんだろう・・
そして「あの」と言おうとした時、無情にもエレベータは一階に着いてしまった。
「じゃ、またお店に行きますね」
城田さんはそう言って、去って行った。
城田さんか・・。
A社の社員さんだったのね。
店と近いし、きっと毎日のように通ってくれるはずよね。
私は、名前と勤め先がわかったことで、天にも昇るような気持ちだった。