十六、経験
私が階段を上がろうとした時、徳利を運んでいた里に出くわした。
「おや、受付のお嬢さんが上に何か用なのかい」
里は皮肉たっぷりにそう言った。
「なによ・・その言い方」
「別にぃ?城田の若旦那のお相手かい」
里はバカにしたように笑った。
「違うわよ」
「ふーん。あっ、じゃあ糸田の方だね」
「・・・」
私が黙っていると里は「してやったり」という風な表情を見せた。
「糸田の旦那と城田の旦那を両天秤とは、さすが何でも知ってる利発なお嬢さんだねぇ」
「里、それ早く持って行きなさいよ」
「言われなくてもわかってんだよ。あんたこそさっさと「離れ」へ行きな」
里は舌を出して、二階の客間へ行った。
なによ。
ああ~~ムカツク!
私は最悪な気分で三階へ行った。
障子の前で座り「お邪魔します」と声をかけた。
「誰だい」
中から江梨子姐さんの声がした。
「若旦那さまのお酌をしに参りました」
「入りな」
障子を開けると以前と同様、上座に若旦那が座り、横には江梨子姐さんがいた。
「子分」たちも「おお、来たか」と言い、私は若旦那の横へ行った。
「久しぶりだな」
若旦那はニヤリと笑って、猪口を差し出した。
「お久しぶりです・・」
私は徳利を持ち、酌をした。
「少しは解れたかい」
江梨子が訊いた。
「あ・・はい」
「以前と違って、少し落ち着いたように見えるじゃないか」
「そうですか・・」
「水樹といったな」
若旦那が私に訊いた。
「はい」
「水樹はいくつになる」
「十九です・・」
「ほぅ。十九か。若いな」
「水樹、若旦那はいくつに見える?」
江梨子が訊いた。
「いくつって・・えっと・・」
まったくわからない。
小太りだし、老けて見えるけど、でも若めに言った方がいいよね・・
「二十四・・?」
「あはは。水樹、そりゃ若旦那に失礼ってもんだよ」
江梨子は声を挙げて笑っていた。
「え・・すみません」
「僕は三十だよ」
げ・・
もっと上じゃない。
なんで失礼なのよ・・
「僕も、まだまだ半人前だな」
若旦那が笑うと「子分」たちも笑った。
「いえ・・そんなつもりじゃ・・。すみません・・」
「まあいい。さっ、酌をしてくれ」
そう言って若旦那は、また猪口を差し出した。
「さあて、小唄でもお聴かせしましょうかね」
江梨子は部屋の隅に置いてあった三味線を持ち、下座へと移動した。
「では、『逢うて別れて』を・・」
そして江梨子は、シャンシャンとバチでつま弾きながら、「逢うて別れて 別れて逢うて 千切れちぎれの雲みれば」と唄い始めた。
部屋にいる全員は、江梨子の艶のある声に聴き入っていた。
私も例外ではなかった。
なんて美しいんだろう・・
どうすれば、あの「色気」が出るんだろう。
いやらしくないのよ・・
とにかく綺麗なのよ・・
「おそまつさまでした」
江梨子は手を前についてそう言った。
「さすが、江梨子姐さんだ。いやあ~素晴らしい」
子分の一人がそう言った。
そしてみんなが拍手を送った。
「お前の芸は一級品だな」
席に戻った江梨子に、若旦那がそう言った。
「恐れ入ります。さ、おひとつどうぞ」
江梨子は若旦那に酌をした。
「ちょっと水樹。なに見てんのさ」
私が江梨子に見惚れていると、そう言われた。
「あ・・すみません。あまりにも綺麗だったので・・」
「あはは。なにも出やしないよ」
「そんな・・」
「水樹、もう下がっていいよ」
「そうですか・・では失礼します」
「水樹も磨けば光りそうだな」
私が出て行こうとすると、若旦那がそう言った。
「若旦那、若い娘をからかっちゃ罪ですよ」
江梨子が言った。
「お前もそう思うだろ」
「なに言ってんですか。この仕事は一朝一夕ではできやしませんて」
「お前もそうだったろ」
「そりゃ?確かにそうですけど、何年かかると思ってんですか」
「お前はいくつの時からだ」
「私は九つですよ」
「ほーぅ。そんなにか」
いや・・あの・・
私、芸者になる気は全くないですから。
磨けば光るとか、なに言ってんのよ。
「あの・・失礼してもいいですか」
私はたまらずそう言った。
「また今度も酌を頼むぞ」
若旦那が言った。
「は・・はい・・」
「あっちでな」
若旦那は離れを指してそう言い、気持ち悪い笑みを浮かべた。
え・・
嘘でしょ・・
嫌だ・・こんなキモイ男・・
「水樹、冗談だよ」
江梨子が言った。
「そ・・そうですか・・」
「ほらほら、若旦那」
江梨子はそう言って酌をしていた。
ほんとに冗談なの・・?
でも・・指名されたら断れないのよね・・
嫌だ・・絶対に嫌だ。