十一、呉服屋の若旦那
その日の夜、仕事が終わって私たちは初枝の部屋に集まっていた。
「それにしても水樹、帳簿付けとはすごいね」
初枝が言った。
「水樹ちゃん、足し算もできるんだってね」
次に志歩がそう言った。
「カフヒーの作り方も、あの清助さんに教えるんだから、ほんと大したものよ」
小柄でかわいい房子が言った。
「あ~あ。すっかり先を越されちゃったよ」
里は、どこか投げやりだった。
けれども美智乃だけは、黙ってみんなの会話を聞いていた。
「帳簿付けって、どれくらいの給金が貰えるのさ」
里が訊いた。
「そんなの知らないよ。っていうか、私の家に前金払ってるから、しばらくは無給じゃないのかな」
「そんなのすぐに返せるさ。あ~あ。いいなあ」
「里ちゃんは、誰かと馴染みになって返すんでしょ?」
志歩が訊ねた。
「あっ!それだよ、それ」
里が何かを思い出したように言った。
「今日、あの若旦那が来たんだよ」
「ああ~、あのいい男ね」
「もうさ~、カフヒーを飲む所作ったら、そりゃ慣れたもんだったよ」
「え・・里ちゃん、見たの?」
「見たよ。御用はありませんか~って、覗きに行ったんだよ」
里はそう言って笑った。
「里ちゃん、お客に失礼だよ」
志歩がまたそう言った。
「いいじゃないか。本当に用があるかも知れないだろ」
「あの・・お連れの女性がいたよね」
私がそう訊いた。
「そうそう!あの美人ね。あれは絶対に恋仲だよ」
「やっぱりそうだよね・・」
私は元気のない声で言った。
「なにさ、水樹。あっ、もしかしてあんた、惚れたのかい?」
「まっ・・まさか。そんなことあるわけないよ」
「あらら?頬が赤くなってるわよ」
志歩はからかうように言った。
「ほらほら、里も志歩も。水樹が困ってるでしょ」
初枝が二人を制してくれた。
そうなのよ・・
帰り際にお金を払った時、一緒にいた女性は、城田さんの後ろで恥ずかしそうにしていたのよ。
来る時もそうだった。
きっと・・珍しいコーヒーを彼女に味わってほしかったんだわ。
「あの若旦那ね・・」
そこで美智乃が口を開いた。
みんなは一斉に美智乃を見た。
「ここら辺りじゃ有名な、呉服屋の若旦那なのよ」
「ええっ!ちょっと、なんで美智乃が知ってるのさ」
里がすかさず訊いた。
「知ってるってほどでもないの・・」
「でもさ、有名な呉服屋の若なら、なんで旦那さんたちは知らないのさ」
「最近まで留学なさってたそうよ」
「ええ~~!そんなことまで!」
里はひっくり返っていた。
「みっちゃん、それどこで聞いたの?」
志歩が訊いた。
「お使いに出かけた時、たまたま呉服屋の前を通ったら、「坊ちゃんおかえりなさい」って番頭さんが言ってて、「イギリスはどうでしたか」と訊きながら中へ入って行ったのよ」
「ひゃ~エゲレス!」
房子がそう言って驚いた。
「ふさちゃん、その呼称は、もう古いのよ」
美智乃が言った。
城田さん・・留学って・・
そういうキャラ設定なのかしら。
「美智乃・・それって、城田呉服屋?」
初枝が訊いた。
え・・城田・・マジで城田なんだ。
「そうよ」
下の名前はなんていうんだろう・・
「城田の若旦那なら、一見さんじゃなくて、上客の位なのにね」
初枝がそう言った。
そうなんだ・・
そんなにハイレベルなお家なんだ・・
「やっぱりそうだったんだ。どうりで上品だと思ったんだよ。ああ~~、城田の若旦那かあ。いいなあ~」
里は両腕を上げて、背伸びをした。
「その・・呉服屋ってどこにあるの?」
私は美智乃に訊いた。
「店を出てまっすぐ行くと、大通りに出るでしょ」
「うん」
「そこを左へ行くと三軒目にあるわよ。お隣は乾物屋」
「そうなんだ・・」
結構、近くにあるんだな。
まるで私が勤めていたカフェとA社の距離のようだわ。
「ちょっと、水樹」
里が私を呼んだ。
「なに」
「あんた・・行くつもりじゃないだろうね」
「そんなっ・・行かないわよ」
「抜け駆けは許さないよ」
「なに言ってるのよ。そんなつもりないんだから」
「まあまあ、さとちゃんも、水樹ちゃんも」
志歩がそう言って制した。
「里がそう望んだところで、恋仲の人がいるんだったら無理じゃない」
初枝がそう言った。
「それ言う?人の心はどうとでも変わるもんなのさ」
「それに身分が違い過ぎる。相手は呉服屋の若旦那。こっちは給仕だよ」
「玉の輿ってこともあり得るじゃないか」
「そんなの夢物語よ。私たちはせっせと働いて、年季を終えて故郷に帰ることよ」
「私は嫌だね。城田の若旦那と馴染みになって、金を稼いで自分で店を持つのさ」
「まったく・・里は」
初枝は呆れていた。
「それこそカフヒーの店でも開くと、大儲け出来るってもんさ」
そこで里は私を見た。
「水樹、あんたを雇ってやるよ」
と私の肩に手を回して言った。
「そんなの・・いいよ」
なに言ってるのよ。
カフヒーの店なんて。
それより城田さんよ。
なんとか話ができないものかなあ。