十、突然の昇格
「水樹はいるかい」
ある日のこと、私はおばあに呼ばれた。
調理場まで来たおばあは、私を探していた。
滅多にここへ来ることがない事態に、女子たちも戸惑っていた。
「はい・・」
私は板の間で食器を拭いていた。
「ちょっと、来な」
え・・なんだろう・・
なんか、怖いんですけど。
私は立ち上がっておばあの傍まで行った。
おばあはなにも言わず、私の前を歩いた。
「あの・・水樹がなんか粗相しましたか」
真知子が慌てて訊いた。
「お前はいいから、仕事しな」
おばあは突き放すように言った。
真知子はそう言われ、次の言葉が出なかった。
おばあが私を連れて行った先は、敷地内にある経営者の住居だった。
え・・ここって、入っちゃいけない場所のはず・・
なんで私を・・
「座んな」
私は六畳の部屋へ通され、言われた通り座った。
「あんた、カフヒーの作り方を知ってたらしいじゃないか」
おばあは火鉢に刺してある火箸を突きながら、そう訊いた。
「え・・まあ・・」
「なんで知ってたんだ」
「それは・・えっと・・横浜の港で・・」
私は初枝に説明したのと同じことを言った。
「どうなんだかねぇ」
おばあは信じていない風だった。
「それにあんた、字が書けるのかい」
「えっ・・いえ・・書けません・・」
「ふーん。まあいいさ」
おばあはそう言って、木箱の引き出しから煙管を取り出し、煙草に火を点けていた。
「あたしはね、農民の子であろうが、貧乏人であろうが、才能は別だと考えているんだよ」
「そうですか・・」
「あんたが誰に習ったかなんてどうでもいいのさ」
「・・・」
「あんた、足し算や引き算はどうなんだい」
正直に答えてもいいのかな・・
「えっと・・」
「臆することはないさ。正直に言いな」
私が口籠っていると、おばあがそう言った。
「少しなら・・」
「ふーん。そうかい」
私は下を向いたまま返事をしていた。
「水樹」
「はい・・」
「こっちを向きな」
私はそう言われ、おばあの顔を見た。
「三十五足す六十七は」
「え・・」
「答えてみな」
「百二です」
「ほーぅ」
「八十三引く二十九は」
「五十四です」
「それじゃ・・」
おばあはそう言って、引き出しから紙と筆を取り出した。
そして硯で墨をすっていた。
「よし、ここに名前を書いてみな」
「あ・・はい・・」
私は筆を受け取り、「白川水樹」と縦に書いた。
「へぇー、漢字も書けるのかい」
「あ・・はい・・」
「水樹」
「はい・・」
「あんたは明日から、私を手伝っとくれ」
「え・・」
「お客の金の管理をお前に任せる」
「あの・・それっていいんですか・・」
「どういう意味だ」
「その・・旦那さんや女将さんに叱られないかと・・」
「あはは。あたしが決めたことには、誰も逆らえないんだよ」
「・・・」
「いやあ~あたしも年でさ。目も薄くなってきたんだよ。あんたがやってくれると助かるんだよ」
「そうですか・・わかりました」
こうして私は給仕から、お金の管理をすることになった。
これって・・昇格ってことよね。
このことは、おばあがみんなに伝え、誰も口を挟めなかった。
そして次の日、私は店の入り口を上がったところの部屋で座っていた。
ここは客を迎え入れ、お金を受け取る場所でもあった。
部屋と客が入って来るとろこは、ガラス戸で仕切られており、小窓を開けて客の応対が出来るように造られてあった。
現代でいうところの、受付とレジカウンターを兼ねたようなものだった。
「いいかい、お客が入って来たら「いらっしゃいませ」と大きな声で言うんだよ」
おばあがそう言った。
「はい」
「それから幸恵に「何人きた」と知らせな」
「はい」
「それと、これは客の名簿帳。これは出納帳」
おばあは二冊の帳簿を私に見せた。
「それと、この引き出しが金を入れるところ。いいね」
「はい」
「部屋が満室の場合、あっちの部屋でお客を待たせるんだよ」
おばあは応接間を指して言った。
こうして私は、一通りのことを教わり、お客が来るのを待っていた。
「お姉ちゃん、すごいね」
奉公人の五助が小窓から声をかけてきた。
「こらっ五助!掃除をサボってんじゃないよっ」
五助はすかさず、おばあに叱られていた。
店の開店時間は、夕方の五時からだった。
もうすぐ開店の時間なので、五助は玄関をほうきで掃いていたところだったのだ。
ほどなくして開店時間になり、お客が次々と入ってきた。
「いらっしゃいませ」
私はその度に、幸恵に「何名様です」と告げ、幸恵はとても不満そうに私を見るのだった。
この仕事は私にすれば、カフェで客を迎えるのと、そう変わりはなかったので、「いらっしゃいませ」と発する声も、当然のようにスムーズに言えた。
「あんたさ、やっぱりここに向いてたね」
おばあが私の後ろでそう言った。
「その調子でやっとくれ」
「はい」
私は振り向いて答えた。
おばあは珍しく、嬉しそうに笑っていた。
「空いてますか」
あ・・
ああ・・
ああああ!
そう・・目の前に現れたのは城田さんだった。
「い・・いらっしゃいませええ!」
私は人一倍、大声でそう言った。
「こらっ、水樹。張り上げ過ぎだよ。すみませんねぇ~、この子まだ日が浅いもんで」
目を丸くして驚いていた城田さんに、おばあがそう言った。
「いえ、いいですよ」
城田さんはニッコリほほ笑んでいた。
ああ・・あの時の笑顔と同じだわ・・
「ほら、水樹。なにやってんだい。ご案内して」
「あ・・は・・はい・・」
私は小窓から顔を出し、「お一人様です!」と幸恵に告げた。
「あの・・二人ですよ」
城田さんにそう言われた。
「え・・」
城田さんの横には、とても美人な女性がはにかむように立っていた。
げ・・うそ・・
もしかして・・恋人・・?
絶対にそうだわ・・
ちょっと待ってよ・・
城田さん、私にいい夢を見させてくれるはずなんでしょ・・
こんなの酷いじゃないの~~!