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第54話 大き過ぎる犠牲

軽めですが流血表現があります。苦手な方は御注意ください。

「やって……くれたわね」


 呪いの言葉を吐くかのような恨みがましい声を、ノイエッタ嬢が喉の奥から絞り出す。


 衝突した二人の身体はぴたりと重なっているため、肝心の手元がよく見えない。ただ、ほとんど隙間があるようには見受けられなかった。


「最初から、このつもりだったの……?」

「勿論」


 弟君が不敵な笑みを浮かべ、ノイエッタ嬢が声にならない声を漏らして悔しがる。

 泣く泣く、という雰囲気ではない様子から察するに、元々あまり仲の良い姉弟ではなかったようだ。


 虚構フィクションの中でしか見たことのない『人が人を刺すシーン』に、私の全身は今まで経験したことがないほどの鳥肌を立てたけれど。

 銀製の刃を以て弟が姉の断罪をしただけなのだと、この世界では弟君の行為が悪として裁かれることはないのだと、私は目の前で起きたことを冷静に受け入れようとした。


 しかし、何だか、様子がおかしい。


「姉さんを殺して、僕が地獄に堕ちるなんて、馬鹿みたいだろ?」


 そう言った弟君の身体が、ぐらりとかしいだ。


「地獄に堕ちてもらうのは――姉さんのほうだよ」


 台詞を完全に言い終わらないうちに、彼の膝が少し折れ、二人の間にある程度の空間が生まれる。そこに銀の短剣が介在していることは想像に難くなかったけれど、その時私は――自分の目を疑わずにはいられなかった。


 短剣が胸に深々と突き刺さっているのは、ノイエッタ嬢ではなく、弟君のほうだったからだ。

 短剣の柄はノイエッタ嬢が両手で掴んでおり、それを上から弟君がしっかりと握っていた。そう、まるで――わざと自分を刺させたみたいに。


 ごぼ、と弟君の唇から黒い血が溢れ出す。そのまま崩れ落ちそうになるところを、伯爵が反射的に立ち上がり、転びそうになりながらも駆け寄って、支えた。

 私も半分抜けかけている腰に鞭を打って、調度品に掴まりながら彼らの元へと近付く。そして伯爵が壁を背に弟君を座らせるのを手伝った。


「どうして……」


 こんなひとのために、という言葉を飲み込んで、私は唇を噛んだ。意図せずして弟に危害を加える形になったノイエッタ嬢は、甲に刺さったままの楔の痛みも忘れているのか、柄から離れてもなお両手をその形に固定させた状態で、わなわなと震えている。


「……魔族の中で、『同族殺し』というのは万死に値する大罪なんだ」


 伯爵が重々しげに口を開いた。それで先程の、弟君の台詞の意味を理解する。


 仮にお姉さんを亡き者にしたとしても、罰を受けることになるのは自分だけ。だから彼は自らの命と引き換えに、お姉さんに最大限の罰を与えることを選んだのだ。無理矢理にでも『同族殺し』をさせることで。


「ジーク様の代から、迷惑をかけ続けて、ごめん、ディアス」

「……ザカリア」


 息も絶え絶えに弟君が言葉を紡ぎ、それを受けた伯爵が眉根を寄せて首を横に振る。


「でももう、大丈夫だから。安心して、幸せに、なれよ」


 彼の濃い紫色の瞳から、ゆっくりと、しかし確実に光が失われてゆく。私も伯爵も、喋らないでとは言えなかった。彼の元に、もうすぐそこまで死が迫っているのが分かっていたから。


「……助けていただいて、ありがとうございました」

「ミオさん……」


 だらりと力なく床に投げ出されている弟君の手に、私が自分のそれを重ねると、彼は血に濡れた口元を微かな笑みの形に歪めた。


「ディアスのこと、宜しく、お願いします」


 そう言う彼の声はもう、至近距離ではないと聞き取れないほどの音量になっていて。胸の詰まった私は、はい、と返事をしようとしても湿った息を吐くばかりで、ひたすら首を縦に振るしか出来なかった。


「後、数十年もすればまた会える。その時は一緒に酒でも呑もう」


 弟君の肩にそっと手を置いて、伯爵が穏やかな声をかける。

 銀の刃が刺さった所から立ち上り続ける煙が、どれだけ視界を遮ろうとしても、私も伯爵も決して弟君から目を離そうとはしなかった。彼が誇り高く死出の旅路に立つところを、絶対に見届けなければいけない。


 そして間もなく、その時は訪れた。


「それは、楽しみだな……」


 弟君の目がすうっと細められ、そのまま眠りに就くように静かに閉じられた瞬間。

 彼の身体は、ざら……と乾いた音を立て、着衣の欠片さえも残さずに――灰色の砂になってしまった。


 思わず手で口を覆い、嗚咽しそうになるのを必死で堪える。

 まさかこんな、原形を留めない姿に変わってしまうなんて。彼の死に目に会えなかったご両親のことを思うとあまりに悲しくて、大声を上げて泣きたいくらいだった。我が子が我が子をあやめたという事実だけでも、これ以上ないほどの悲劇だろうに。


「――これは、不可抗力、よね?」


 やがて、『先刻まで弟君であったもの』を、私と伯爵が少しずつ丁寧に掻き集め出した時。事もあろうに、ノイエッタ嬢がそんな戯言を吐き出し始めた。


「殺されそうになったから、自分の身を護っただけよ!私が自ら殺そうとした訳じゃないわ、そうでしょう!?貴方達、見ていたわよね!?」


 甲に刺さっていた楔をもう片方の手で抜き、それでまた新たな焼け爛れを指先に作って顔をしかめながらも、彼女は必死の訴えを止めようとしない。


 いわゆる『正当防衛』に近い概念が、この世界にもあるのかと少し驚きはしたけれど。そんなのすぐにどうでも良くなるくらい、私は自分の中であっという間に膨れ上がるはげしい怒りを感じた。

 命を犠牲にしてまで姉の暴挙を止めたかった弟君の想いを、一体何だと思っているの。今度は平手どころか拳くらいは叩き込まなきゃ気が済まない。


 立ち上がり、何ならそのまま彼女に飛び掛かろうと、全身に力がこもった。

 だけど、背後から「そんな言い訳は通用しないよ」という『絶対権力者』の声が聞こえ、それによって頭が少し冷えた私は踏み込みかけた足を元の位置に戻す。


 振り返ればちょうど、転移魔術によって生じた異空間が、すうっと閉じて消えるところで。

 先日と同じ中年男性の姿をしたオーギュスト公が、険しい表情でその場に佇んでいた。

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