第53話 諦めの悪さが身を亡ぼす
持ち前の人の好さと親しみやすさで、マディもヨオトおじさんも、紅夜城での生活にすぐに馴染んだ。彼女達にとって、初めての魔族との邂逅は別段緊張を強いるものではなかったようで、まるで古くからの知り合いのように皆と打ち解けるのに、そう時間は掛からなかった。
レオンさんの計らいで、時折沢山の薬草が揃えられ、それをマディが調合して出来た薬は今まで通り顧客に届けられるようになったので、街の人々が困ることもなく。
マディはリズから順調にレシピを教わっていたし、ヨオトおじさんは力仕事のリーダーのような存在となって、あちこちの修繕を手掛け始めていた。
ライラの御家族も近々、領地内に引っ越して来ることが決定して。
このまま私達の挙式まで、色々なことが滞りなく進むと信じていたのだけれど。
バルコニーの夜風が少し肌寒く感じる晩――事件は起こった。
「……お久しぶりね」
本来ならばここで聞けるはずのない、媚びるような音色を帯びた声に迎えられ、思わず替えのシーツを取り落とす。
ベッドメイクをしようと訪ねた伯爵の私室で、私を待ち構えていたのは、まさかの――リンディール家御令嬢、ノイエッタ様だった。
驚くと同時に、室内を見渡して伯爵の姿を探す。すると何と彼は、見えない鎖か何かで絡め取られているかのように、床から少し浮いた状態で壁に磔にされていた。
ノイエッタ嬢がそこから入って来たのか、天井近くまである大きな窓が開け放たれ、天鵞絨のカーテンがばたばたとはためいている。
状況が最悪であることを察した身体が、メイド服の下で冷や汗を滲ませ始めた。
「ディアス様!!」
「逃げろ、ミオ……!」
青ざめ、酷く苦しそうな顔で、伯爵が喉から声を絞り出す。
「あら嫌だ、喋れるのね」
気怠げに髪を掻き上げながら、ノイエッタ嬢が小さな溜め息を吐く。
口ぶりは不満気ながらも、優位に立っている者の余裕なのか、その唇は笑みの形に歪んでいた。
「ディアス様に何をしたんですか……!」
ありったけの非難の意を込めて、ノイエッタ嬢を真っ向から睨みつける。
「簡単な拘束魔術よ。力ではディアスに敵わないけれど、身体の自由を奪えばこっちのものですからね」
彼女は毒々しい化粧にお似合いの蠱惑的な微笑を浮かべながら、ねっとりとした視線を私に返してきた。
「貴女にも同じ術をかけてあげる。手も足も出せないまま、愛しい旦那様が切り裂かれる様子を黙って見てなさい」
台詞を言い終わらないうちに、ノイエッタ嬢の瞳が紅く光る。
しまった、なんていう軽い思いどころじゃなかった。絶望に心臓を鷲掴みにされて、息も出来ない。
この蛇の如きしつこさの御令嬢によって、私達の生が終わらされるかもしれないという恐怖は、私の足を一瞬、確かに竦ませた。
――しかし。
「え?ちょ、ちょっと」
私はそのまま、ノイエッタ嬢の元へつかつかと大きな足音を立てて歩み寄ると。
骨すら砕きかねない純血のヴァンパイアの反撃を受ける覚悟で、彼女の頬に渾身の平手打ちを食らわせた。
「……どうして!?」
打たれた所を手で押さえながらも、特にやり返そうという素振りは見せぬまま、ノイエッタ嬢が呆然としてこちらを見つめてくる。狐につままれたような表情の彼女に、私は己が自由に動けた理由を懇切丁寧に教えて差し上げることにした。
「オーギュスト公が仰っていました。私をこの世界に召喚したはいいけれど、感知魔術に引っ掛からず、全然見つからなかったと。だから思ったんです。『この世界にしか存在しない魔術』は、私には効かないんじゃないかなって。予想が当たって良かったわ」
叩きつけた右手がじんじんと痺れて痛い。だけど、やらずにはいられなかった。私が術に掛からなかったことで、幾らか安堵の色を顔に浮かべながらも――伯爵は今も、その身を壁際に固定されて苦しんでいる。
強烈な敵意のこもった眼差しがこちらに向けられ、私はそれを怯まずに撥ね付け、しばらくの間は拮抗状態が続いた。
やがてそれは、ノイエッタ嬢によって呆気なくバランスを崩されることになる。
「――でも、単純に『力』なら通るのよね!?」
冷静になって戦況を把握した彼女が、私の腕をがっと掴んだ。
折られるかも知れない。最悪、捩じ切られたり、引き千切られたりして、持って行かれるかもしれない。平手を打った時と同様に、私は再び覚悟を決めた。
例え私が壮絶な痛みを味わうことになるとしても、最低限、ディアス様が――最愛の人が助かればいい。
ベッドメイクを終えたら、一度ヴァネッサさんの所に来るように言われている。しばらく戻らなければ、不審に思った彼女がきっと様子を見に来てくれるだろう。それまで、何とか時間が稼げればいい。
ノイエッタ嬢の手に力がこもったのを感じて、私は咄嗟に目をきつく瞑った。
その瞬間、カーテンが激しく煽られるような音と共に、自分のものではない悲鳴が聞こえ――身体がふわりと浮く感覚がして。
「……いい加減にしてくれよ、姉さん」
耳慣れない声が頭上で響いたので、私は恐る恐る瞼を開けた。
深い緑色のマントで私を庇うように包み、強い怒りを含んだ眼でノイエッタ嬢を見つめているのは、晩餐会の夜に見かけはしたもののほとんど言葉を交わせなかった、彼女の弟君だった。
恐らくこの人もかなり永くを生きているはずだけれど、こうして間近で見てみると、自分とそう歳が変わらないくらいの青年の姿をしている。
ふとノイエッタ嬢のほうに視線を移すと、私の腕を掴んでいたはずの彼女の手の甲には、銀色の楔が突き立てられていた。
刺さった所が黒い煙を上げながら火傷のように爛れており、歯を食いしばったノイエッタ嬢からは引っ切り無しに呻き声が漏れている。
衝撃の展開だった。予想だにしていなかった、どんでん返し。自宅を抜け出したお姉さんを、弟君が追ってきていたのだろうか。窓が開いたままだったのは、実に不幸中の幸いだった。
それで拘束魔術が解けたのか、伯爵が床に座り込んでいたので、私は弟君のマントをすり抜けて伯爵の元に駆け寄った。
体力を消耗した様子ではあるけれど、外傷はないようだ。片腕でそっと抱き寄せられて、自然と涙が滲む。
「我がリンディール家に……父上の顔に、どれだけ泥を塗ったら気が済むんだ」
吐き捨てるようにそう言った弟君の懐から、ノイエッタ嬢の手に刺さった楔よりもずっと大きな、美しい宝飾の短剣が取り出された。鞘から銀に煌めく刀身をすらりと抜いてみせた彼に、ノイエッタ嬢が痛みと怯えの混じった表情で唇を震わせる。
「ザカリア……何を、するつもりなの」
「決まっているだろう?終わらせるんだよ。このままじゃどの道、姉さんの自分勝手過ぎる振る舞いのせいで我が家は取り潰しだからね」
「貴方だって、そんなに身体に悪い物を持って……ただじゃ、済まないわよ」
「ああ、こうして構えているだけで、気を失いそうだよ」
弟君は短剣をノイエッタ嬢に向けながら、力なく微笑んだ。特に暴れた訳でもないのに吐息が荒い。肌が恐ろしく青白いのは、単に純血のヴァンパイアだからという理由だけではなさそうだ。
「魔族で、特に貴族というのはね、常に誇り高く在らねばならないんだ」
剣の切っ先がゆらり、蝋燭の炎を反射して蜃気楼のように揺らめく。
「――さよなら、姉さん」
その弟君の言葉と共に、銀の刃がノイエッタ嬢のほうへゆっくりと吸い込まれて行く。私と伯爵はそれを、息を止めてただ見ていることしか出来なかった。




