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第50話 誘惑は、沁み入る温情の後で

「大変でなければ、お前がそこからここに通ってくれてもいい。それが負担だと思うなら、お前はここで暮らし、好きな時に家族の元へ帰るようにすればいい。どうだ?」

「あ……」


 自分にとってあまりに都合が良過ぎると思ったのか、ライラの美しいグレーの瞳が、そこまで甘えて良いものかと私に意見を求めて揺れる。だから私はにこりと笑って彼女の背中に手を添えた。するとその両眼にふるふると、薄い水の膜が見る見る出来上がっていく。


「……それより素晴らしい案は、私にはとても思いつきません。本当に、ありがとうございます」


 丁寧に頭を下げたライラの声は、少し湿っていた。釣られて私の目頭もすっかり熱くなっている。


 同期三人のうち、どの娘とも仲が良いけれど、やはりライラとは同室だけあって付き合いの密度がとりわけ濃いように感じていた。期間が短くても、彼女と別れる寂しさは、マディの時に匹敵すると思った。


 だからこそ、伯爵の提案は本当に嬉しくて――嬉しくて、今すぐ抱きついてキスのシャワーを浴びせたいのを、この時は必死で我慢した。


「新しい住まいは、贈ろう。その……お前には、こちらの都合で、過ぎた『仕置き』をしてしまったしな。詫びの証として受け取って欲しい」

「そんな!」


 続けての伯爵の気前の良い申し出に、ライラが慌てて首を横に振る。


 彼女を含めた三人には、晩餐会が落ち着いてから、『開かずの部屋』のことを話してあった。

伯爵と執事さん両者からも正式に謝罪があり、それぞれ納得はしてくれたのだけれど、『記憶を消される』という行為の恐ろしさが何となく彼女達の中に残り。

 特にライラは『当日の記憶がほとんどない』という状態を身を以て体験しているため、理解はしたけれどどことなくスッキリしてないような印象を私も受けていたのだった。


 しかしライラにとっては、自分のこうむったものと、伯爵から与えられるものとが釣り合っていないと感じたようで。


「もう終わったことですし、そこまでしていただく訳には……」


 その本当に恐縮した彼女の様子に、伯爵がやや戸惑って「やり過ぎか?」という視線を私に向けてくる。


 まあ、一般的な感覚だと、一家丸ごと住める家を貰うとなると、一体どんな見返りが必要なのかと不安に覆い尽くされるところだけれど。

 ライラは今までの人生が担保だったこと、今回は一日分で済んだ記憶も、下手をしたらもっと多く消えていたかも知れなかったこと、御家族は一度完全に彼女をうしなったと思っているだろうことなど――伯爵が大きな罪悪感を持つのに充分な材料が揃っているのも確かだった。


 ライラが遠慮する気持ちも、伯爵の厚意も分かる。

 だから私は、「ちょっと狡い手だけれど」と前置きした上でこう言った。


「ライラにこれからもお城で働いてもらうために、伯爵がもう御家族で住める家を用意してしまった……っていうことにしておいたほうが、話がスムーズかも知れないわ」


 そう、何せ『逆らえば地域ごと皆殺し』という噂を流されていた、ヴァンパイア伯のことなのだ。

 普通に娘が帰って来るのなら、御家族はきっともうウィランバル家とは関わらず平穏に暮らして欲しいと思うに違いないけれど、住まいを先に整えられてしまったら引っ越さざるを得ないと考えてくれるかも知れない。


 これにはライラも「確かに……」と心が動いたようだった。


「そうだ、遠慮はいらん。腐るもんでもないしな」


 伯爵に駄目押しされ、とうとうライラも根負けする。


「それでは、何から何まで甘えてしまうことになりますが……これからも誠心誠意お勤めさせていただきますので、どうぞ宜しくお願いいたします」


 深々とお辞儀をするライラを見て、伯爵が満足気に頷く。私はその伯爵を見て喜びに満たされた。思い切って相談に来て、本当に良かった。


「お忙しいところを、どうもありがとうございました」


 今度は私もライラと揃ってお辞儀をする。これ以上伯爵の仕事の邪魔をしては申し訳ないので、きびすを返そうと足を浮かせかけたところ、「――ところで」と彼が書類を机の端にけた。


「俺は今から少し休憩を取ろうと思うんだが」


 背もたれに身体を預け、リラックスした体勢を取った彼に、「畏まりました、お茶をお持ちしますね」と私が笑顔を返すと。


 「そうじゃないでしょ、ミオ」とライラが私の背後に回って両肩を掴み、伯爵のほうへ押し出すようにして、明るい調子で言った。


「では、私は先に、『一人で』戻ります」

「察しがいいな、ライラ」


 伯爵が唇の端をにんまりと持ち上げる。

 二人のこの短いやり取りで、私もさすがに勘付いた。顔も身体もかあっと熱くなり、後ろにいるライラの顔を見ることが出来ない。


 彼女の手が離れ、「ごゆっくり」という台詞と共に扉が閉まる音がしても、私はその場を動けなかった。つい先程まではあんなに飛びつきたいと思っていたのに、軽いスキンシップでは済まなさそうな予感に、頬が火照る。だって、まだ日が高いし、勤務時間も終わってないし。


 すると伯爵はふっと笑って徐に椅子から立ち上がり、私のすぐ横をつかつかと通り過ぎると――がちゃりと、内側から扉に鍵をかけた。


 逃げ場がなくなってしまった。いや、逃げるつもりなんてないのだけれど。

 高鳴る胸の鼓動が、期待によるものだということも本当は分かっている。


 誰にも邪魔されない空間が出来上がって間も無く、後ろからしっかりと伯爵に抱きすくめられ、私の頭は陶然となった。自然と漏れ出る吐息が妙に婀娜あだっぽいのは、これから自分に訪れるであろう甘い感触の数々を知っているから。


「――エプロンは置いてきたのか。一つ手間が省けたな」


 そう言って愉しそうに笑う彼の手は、既に私のスカートの裾をゆるゆるとたくし上げ始めていて。

 ちっとも『休憩』なんて出来ない、熱くセクシーな時間になってしまったのだった。

 途中、ドアノブをガチャガチャと動かす激しい音と、執事さんの怒声が部屋の外から聞こえたことは、言うまでもない。

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