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第38話 引き下がれない攻防戦

 私が今この世界に存在しているそもそもの理由が、オーギュスト公が呼び寄せたからと言われてしまえば、伯爵がその事実を抑えてまで強気に出られる材料というのは無いに等しかった。

 それでも伯爵の瞳の光が完全に失われていないのを見て、私も必死に打開策を頭の中で探すものの、ちっとも良いアイデアが浮かんで来ない。


 すると、時として悪いことというのは重なるもので。


「とっても楽しそうなお話ですわね」


 生き血のような色のワインがなみなみと注がれたグラスを手に近付いてきたのは、最も事情を知られたくない相手、ノイエッタ嬢だった。

 わざわざ公爵が人気ひとけのない壁際を選んだのだからと、ほとんどのゲストは気を遣って私達に近付かないようにしていたけれど、彼女にはそんな空気を読むようなスキルはないようだ。いやむしろ、密談の気配を感じ取って、『敢えて』接近して来たのかも知れない。


「ミオさんは、ゼーレ様が異世界からわざわざ呼び寄せられたとか?」


 ノイエッタ嬢の毒林檎色の唇がにやりと歪んだ。


「……盗み聞きとは、随分趣味がいいようだな」


 それまで沈黙を保っていた伯爵が、分かりやすい悪意に口を開く。


「あら、通りすがりに聞こえたのよ」


 ノイエッタ嬢が長い髪をかき上げながらそう答えた。この広いホールで『通りすがった』と言い切る彼女のふてぶてしさに、逆に感心しそうになる。


「まあどうせ、皆にも知れ渡ることだろうからいいけどね」


 私の腰を抱くオーギュスト公の手に力がこもり、暗く沈んだ気持ちに拍車がかかる。生理的に気持ち悪い訳ではないけれど、好きな人の前で何の情も湧かない男に密着されているという状態は、ただただ不快だった。こんな風に出会っていなければ、実年齢はさておき、可愛い歳下の男の子の背伸びしたスキンシップとして受け入れることも出来ただろう。私は彼の腕を振り解きたいのを我慢して、険しい面持ちの伯爵に視線を投げかけた。


 気付いた伯爵と、目が合う。

 そこで私は言葉を発することなく彼に問いかけた。


 貴方と引き離されるくらいなら、これ以上、耐えなくてもいいですか。

 貴方以外のひとに抱かれるくらいなら、死を覚悟してもいいですか。


 ――どこまでも私と、命運を共にしてくれますか……?


 勿論、伯爵に読『心』術の能力がある訳ではなかったし、同じように私に読『唇』術の心得がある訳でもなかった。それなのに伯爵は、私の見間違いでなければ、その唇を僅かに動かしてこう告げたのだ。


 ――「好きにしろ」。


 その瞬間私は、伯爵との間のことだけでなく、この紅夜城で一緒に働いてきた仲間全てとの絆を信じた。巻き込んでしまうことを申し訳なく思いながらも、ここで私が伯爵と別れてオーギュスト公のものになることに、すんなり納得してくれる人は一人もいないだろうという確信があった。


 一つ、大きな深呼吸をして。私は公爵の手に自分のそれをそっと重ねると、彼のほうを向いてにっこり、「オーギュスト公」と微笑んだ。

 うう、顔の距離が近い……!隙を見せたらすぐ唇を奪われそう。でも今はそんなこと構っていられない。最終的にこの人の専属愛人にならなくて済むなら、キスの一つや二つ、くれてやるわ。


「何だい、ミオ?」

「先程は、御挨拶を間違えまして大変失礼いたしました」

「え?何か間違えてた?」

「ええ、名前を」


 私の発言に、ディアトリスさんが「名前!?」とぎょっとする。


「君は、ミオっていうんじゃないの?」

「ええ、ミオです。ですが、トウドウというのは旧姓です」


 意味を一足先に理解したのか、オーギュスト公、そしてノイエッタ嬢の眉が微かにひくついた。だけど私は構わずに続ける。


「ミオ・ウィランバル、と名乗るのは、まだ慣れなくて」


 ほとんど宣戦布告と言ってもいいその台詞を、私はありったけの勇気を掻き集めて口にした。

 ノイエッタ嬢が反射的に何か妨害しようとしたらしく、手を振りかざしたけれど、どうやら間に合わなかったらしい。彼女の背後で、ずっと動向を見張っていたらしいヴァネッサさんの右手から、紫色の光の粒が立ち上っていた。


「――冗談だよね?」

「いえ、冗談ではありません」


 答えたのは伯爵だった。


「申し訳ございません、話し出すタイミングを逸してしまいまして。もとより本日は、公に妻を紹介するつもりだったのです」


 恭しくお辞儀をする彼に合わせ、オーギュスト公の腕からするりと抜け出る。そのまま、抱き留められるようにして今度は伯爵の腕の中に収まった。オーギュスト公の逆鱗に触れそうだけど、もう今更だろう。


「ねえ、ディアス」


 口元はにこやかに、しかし目元が一切笑っていない表情で、オーギュスト公が腕を組んだ。


「何か印があった訳じゃないからね、ミオが僕のモノだって知らなかったのは仕方ないよ。でも今、君は預かっていただけなんだって分かったよね?返してよ」


 身長165㎝の私と大差ない背丈の公爵が、酷く大きな存在に見える。見た目に似つかわしくないほどの貫禄――それなのに、喋っていることは外見より遥かに幼い。これで長生きと来たもんだから、周りは御機嫌取りにえらく苦労していることだろう。


 伯爵だってその一人だ。税収が減ってもオーギュスト公への貢ぎ物は質も量も落とさないよう、心を砕いてきたのを傍で見てきた私はよく知っている。

 それなのに、今度は妻にすると決めた女を寄越せって。あんまりよね。私もこんな、何百年生きてても中身が子どものままみたいな人に抱かれたくない。


「恐れながら、オーギュスト公」


 私は肚を決めて、伯爵に身体を預けたままきっぱりと告げた。


「貴方に呼び出されてこの世界に来たのだとしても、私は貴方の所有物ではありません。自分の身の振り方は自分で決めます。伯爵の妻として、今後も公爵様とはお付き合いさせていただきたいとは思いますが、それ以上でも以下でもありません」


 私達を射竦めるようなオーギュスト公の瞳が、どんどん冷たさを増していく。

 しかし私はそれでも負けじと喋り続けた。伯爵の手の温かさを、包まれた肩に感じながら。


「もう既に私はディアス様のお手が付いておりますから、どうしても異世界の者をと仰るのであれば、また召喚でも何でもなさってください」


 つい口から出ちゃったけど、別の知らない誰かを生贄にするみたいで、結構酷いこと言ってるな私。


「あら、お手付きかどうかなんて、関係ないでしょう」


 なぜかここで食い下がってきたのは、事の成り行きを慎重に見守っていたノイエッタ嬢だった。攻撃する隙を伺っていたらしく、ここぞとばかりに大げさな身振り手振りで話し始める。


「もともと夜伽のために呼んだのだから、男をよ~く知っている女であることは最初から御承知のはず。何の問題もないですわよね、ゼーレ様」


 ひとを物凄く経験豊富な女みたいに表現してくれたノイエッタ嬢は、静かな怒気を滲ませながら佇んでいるオーギュスト公に擦り寄るような仕草でそう尋ねた。

 ここで公爵が問題ないと答えれば、さらに拒否するのが難しくなって、大人の対応が出来なくなって来てしまう。


 ごちゃごちゃ煩いと実力行使に出られてしまったら、終わりだ。もしそうなるなら、伯爵だけでも助けるということが無理なら、せめて一緒に散りたい。


 私は伯爵のマントの下に腕を回し、彼の服の背中の部分をぎゅっと握った。次に誰かが言葉を発するまでの時間が、恐ろしく長く感じられた。


 すると。


「あら嫌ですわ、ノイエッタ様」


 次に口を開いたのは、公爵ではなかった。


「まさか、公爵たるゼーレ様に、ディアス様のお下がりをお勧めしているんじゃありませんわよね?」


 ノイエッタ嬢の後ろで、ヴァネッサさんがにこにこと恐ろしい微笑みを披露していた。

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