第32話 甘い交わりは、執事のベッドの上で
伯爵が女の人を知らないとはとても思えなかったし、彼自身が話したように実際に経験はしっかりあるみたいだけれど、まさか唇だけは守っていたなんて。
しかもそれを、私のほうから先に、奪った。
「つまり、私に責任を取れと……?」
遊びで寝た女の子を妊娠させたクズ男みたいな台詞が自分から出てくる。
「何だ、それがお前の望みじゃなかったのか」
「それはそうなんですけど……」
思いがけない既成事実に、私の頭は少々混乱していた。
光栄だけど、嬉しいんだけれど、でも何だか、凄く複雑。
伯爵が私を『これという相手』に決めて、そうしてあのキスをしてくれたなら、それはもう愛の告白同然な訳だから、これ以上を望むのは贅沢かも知れない――けれど。
「確かな言葉が欲しいと思うのは、私の我儘でしょうか……」
ほろりと零れ出た本音は、弱気も弱気、消え入りそうな声色だった。それは多分、言葉通り、我儘だという自覚があるから。
「お前が好きだ、と言えばそれで満足か?」
制止していた私の手をやんわりと解いて、伯爵が私の頭をくしゃりと撫でる。
何よりも望んでいたはずの、『好きだ』という言葉。
それを今、確かに耳にしたはずなのに、受け止めた私の心は妙に冷静で。
「本当ですね。こちらから『言わせた』みたいなのって、思ったより響かないわ」
「だろう」
私が苦笑すると、それ見ろといわんばかりに伯爵が片眉を上げる。「もう!」と自由になった手で伯爵の胸をとんと小突いたら、お返しに髪をわしゃわしゃと乱された後、強い力で抱き寄せられた。裸の相手にベッドの上で抱きしめられるという状況に、体温が二度も三度も上昇するような思いがする。
「――正式な誓いは明日まで待ってくれ」
彼の穏やかな声が耳のすぐ傍で聞こえる。同時に、どきんどきんと自分の鼓動が煩いくらいに内側で響く。
「どうせなら、大勢の証人がいる方が良いだろう」
「でも明日、私は厨房から出られませんが……」
「宴の終わりに連れ出す。誰にも文句は言わせん」
きっぱりとした口調からその意志の強さが伝わって、私の目頭が急に熱を持ってきた。
もう、ここまで言ってくれているんだから、欲張らないようにしよう。ゲストの前でということは、関係をオフィシャルにするということ。都合のいい女ではなく、一時的な恋人でもなく、伴侶に選んでくれるという約束をしてくれたのだから。
「ありがとうございます。今はそれで充分です」
目尻から流れたものを拭いながら、私が感謝の意を述べると。
「ならば交渉成立だな」
伯爵の声と共に、視界がぐるんと回り、私の背中が柔らかいシーツの上に押し付けられる。
すぐさま状況を理解した私は、早速とばかりにローブを脱がしにかかってきた伯爵を、「ちょ、ちょっと待ってください」と押し止めようとした。
「ここまで来て、何なんだ」
「これ、レオンさんのベッドですよ!?」
「俺は今すぐお前を抱きたい」
ストレートな台詞が、先程の『好きだ』という言葉の何十倍もの威力で、私の胸のど真ん中を貫く。
すでに紙ほどの薄さになっていたなけなしの理性は、簡単に燃え尽きようとしていた。
「お前はどうなんだ」
圧し掛かるような彼の動きで、ベッドがぎしりと音を立てる。気付けば私のローブの前は完全に肌蹴られていて、もう今更隠せるような体勢でもなかった。
行為自体が幾ら神聖なものであっても、それが他人のベッドという状況は、いかがわしいということになるんじゃ――そんな考えが何度も脳裏を過ぎったけれど。
相手が自分を求めてくれていて、自分も相手のことが欲しい、おまけに場所は睦み合うに御誂え向きの場所。この状況で煩悩を封じ込める強靭な精神を、幸か不幸か私は持ち合わせていなかった。
「……ディアス様に、抱かれたいです」
禁断の一言が、とうとう口をついて出る。
「素直で宜しい」
優しい微笑みが甘い口付けとなって、額に、耳に、うなじに、次々と降らされた。
そうして艶めいた吐息が漏れたところを、掬い取られるようにして与えられたバスルーム以来の二度目のキスは、幸せのあまり気が遠くなりそうで。
この感情を知ってしまったら離れられるはずがないと、私はこの時強く思った。
もう、私にとっては、伯爵の存在自体が媚薬そのものだ。
「――声を出せよ。俺の部屋の、ノイエッタの所まで届くくらいに」
伯爵が煽るたびに、私の身体の至る所が燃えるように熱くなる。
私はこの夜、執事さんのベッドの上で、彼に抱かれた――朝まで、何度も。




