第31話 私は大変なものを奪ってしまっていました
「悪いが、今夜はライラの所で寝てくれ」
私の腕を引っ張って行った伯爵が、ノックもそこそこに執事さんの部屋に乱入してそう告げた時。
仕事の続きなのか、まだ着替えもせずに羽ペンで何やら文書を認めている最中だった執事さんは、まさに『鳩が豆鉄砲を食ったような顔』をした。
「は……え!?」
「ノイエッタが、俺の部屋で、俺のバスローブを羽織って待ち構えているらしい」
私をソファに座らせながら、舌打ちせんばかりの苦々しい表情で伯爵が吐き捨てる。
すると突然の来訪に呆気に取られていた執事さんも、ああ、と腑に落ちたような顔をして、机の上を素早い手付きで片付け始めた。
「そういうことでしたか。道理で先程、あの方のお姿が見えないと思いました」
「……ったく、強硬手段に出やがって」
どかっと私の隣に腰を下ろし、伯爵が鋭い瞳で天井を睨みつける。
何でも二人の話では、伯爵(と私)が入浴している間に、リンディール家の面々が何の連絡もなく紅夜城にやって来たのだという。いわゆる『前乗り』というやつだ。
ノイエッタ嬢の父上レナード様は、遠方の小さな国ながら侯爵に相当する地位の貴族であるため、伯爵がきちんとした恰好で出迎える羽目になったらしい。そしてその際、レナード様と御夫人、ノイエッタ嬢の弟君は揃っていたけれど、ノイエッタ嬢の姿がなかったとのこと。
「ヴァネッサに感知魔術を使わせて、捕まえておくべきだったな。しくじった」
「私もそこまで頭が回らず申し訳ありません。レナード様もノイエッタ様のことは放っておけと仰いましたので、無理な捜索も失礼に当たるかと思いまして」
二人の心底うんざりした気持ちが、具現化して目に見えるようだった。ここまで疎まれていてもノイエッタ嬢に同情の念が微塵も湧かないのは、私自身、直接話してその素性に触れたからだろう。
「それであの、私がライラさんの所でとは、どういう?」
「お前も今夜は一人でないほうが安全だろう」
気を取り直して尋ねた執事さんに、伯爵が神妙な面持ちで答える。
確かに、執事さんが純血のヒウムであり、男性であることを考えると、夜這いをかけられる可能性はゼロではなかった。さすがにライラと同じ部屋で眠っているところを襲いはしないだろう……多分。曲がりなりにも御令嬢だし。絶対、と言い切れないところが怖いけど。
「お部屋に戻れないとなると、寝間着はいかがいたしましょうか。丈が少々短くて宜しければ、私の物をお貸し出来ますが」
執事さんがクローゼットを開き、適当に見繕った物を伯爵に向かって見せる。しかし伯爵が見向きもせず、「要らん。裸で眠る」と答えたので、私も、執事さんも、思わず目が点になった。
「……くれぐれも、私のベッドでいかがわしことはなさらないでくださいね」
伯爵を見る執事さんの眼がじっとりとしている。それを面白がるように、伯爵がにやりと笑って言った。
「お前こそ、ライラに手を出すなよ」
「出しませんよ!!私がそんなことをするような輩に見えますか!」
釘を刺したつもりが逆に刺し返された執事さんが、ムキになって言い返す様子に、私はつい苦笑いを零した。執事さんの気持ちを知らなければ、ごく普通のやり取りに聞こえていただろうだから。
「明朝、こちらに起こしに参ります。それではお休みなさいませ」
執事さんは着替えなどを手早く纏めると、最後まで私達に疑いの視線を向けたまま、渋々と自分の部屋を出て行った。
長い夜を耐えなくちゃならないのは、私ではなく彼になってしまったようだ。申し訳ないけれど、今夜は私のベッドで悶々と過ごしてもらうしかない。自分の部屋で恋敵と意中の相手が一晩過ごすなんて、一体どんな拷問だよと思っているに違いないから、もし明日また彼の態度が冷たくなっていたとしても、甘んじて受け入れようと思った。
「――さて」
遠ざかる執事さんの足音が完全に聞こえなくなった頃、伯爵の声と共に、ソファが軋む音がした。
次の瞬間、私の身体はお姫様抱っこで抱え上げられ、綺麗に整えられた執事さんのベッドへと運ばれて行く。
シーツの上にそっと降ろされ、私が手伝う隙もなく伯爵が着ていた物を全部脱ぎ去ったところで、私は恐る恐る彼に尋ねた。
「あの、いかがわしいことは、しないんですよね?」
その時既に、伯爵の手は私のローブの腰紐を解きにかかっていて。咄嗟にその指を掴んで進行を止めたけれど、いざとなれば力づくで何とでもなる伯爵は、『とりあえず』一時停止してくれただけのようだった。
「『いかがわしいこと』はしない。だが『神聖な儀式』なら構わんだろう?」
何と。物は言いようだ。
魅惑的な彼の微笑に、一瞬脳が麻痺しそうになる。
だけど私は理性を掻き集めてぶんぶんと頭を振り、こちらを至近距離で見つめてくる黒曜石の瞳から、視線を逸らした。
「駄目です。私のことを好きかどうか分からない方に、身体を許すことは出来ません」
傍目に見ればつまらないかも知れない意地を張ることに、私はあくまで拘った。自分だけが相手を好きな状態と、想いが通じ合っていることを確信した状態とでは、抱き合った時の充足度がまるで違うということを、それなりに場数を踏んで来た私は嫌というほど知っている。
すると。
「……誓いの口付けだけでは不満か」
腰紐を強引に解こうとも、諦めて手を離そうともしないまま、伯爵が真面目なトーンで尋ねてきた。
「誓いの口付け……?」
「忘れたとは言わせんぞ。お前もあの時、応えただろう」
少々むすっとしたような口調でそう言われ、たった一度きりしか交わしていない、バスルームでのキスのことを考える。
彼はあのキスのことを差してそう言っているのだろうか。確かに、恋人同士がするような深いものではあったけれど。むしろ、私のアプローチに伯爵が流れというか雰囲気で乗ってくれただけだったんじゃ?『誓い』なんて形式ばった表現が似合うようなものだったかしら?
そんな風にあれこれ悩んでいると、答えは存外早く彼のほうから明かされた。
「ヴァンパイアは、これと決めた相手にしか、自分からは口付けをしない。唾液に媚薬同然の成分が含まれているからだ。血が薄い俺は実際どうなのか分からないが、万が一ということもあるからな。女を抱く時もそれだけは避けていた」
『唾液』という単語に、彼の舌が入って来る感触を思い出して、ぼっと顔に熱が集まる。あの骨の髄まで蕩けさせられるような感覚が、彼の言う媚薬に似た成分のせいなのか、私の気持ちが入っているせいなのかは、確かめようがなかった。
「よって、お前は俺が初めて、そして唯一唇を許した相手という訳だ」
――言い方!!
私は衝撃の告白に動揺し、思いきり自分の目が泳ぐのを感じた。




