第30話 前夜の危険な侵入者
晩餐会前日ともなると、さすがにお城の中が全体的にそわそわしていた。
調度品はどれも綺麗に整えたし、銀食器もピカピカに磨き上げたし(と言ってもヴァンパイアのように銀が駄目な種族もいるので他の金属製もある)、考えられる準備はあらかた片付いたので、もう特にすることがない。
「本日はもう、明日に備えて体調を整えることに専念してください。自由に過ごして構いませんが、あまり夜更かしはしないように」
そんな執事さんの厚意に甘え、私達はリズとコレットの部屋に集まって、ティータイムの延長のような時間を夜まで過ごした。
そして日課の背中流しを終え、バスルームから伯爵を先に送り出して、三人組のお姉さん達の美容施術を受けた後――私にとっての『事件』は起こった。
バスルームは廊下の突き当たりにあり、私が自室へ帰る時、同じ階の伯爵の私室の前を通ることになる。この日もいつものように、特に何も考えずそこを通過しようとした、その時だった。
カチャ、とドアが開く音がして、伯爵の部屋から蝋燭の薄淡い光が漏れたので、てっきり部屋に戻った伯爵か、何か用事があって訪ねた執事さんかヴァネッサさんあたりが出てくるんだろうと思ったのだけれど。
ゆらりと顔を覗かせたのは、見たこともない女の人だった。
いや、見たことがないだけで、私はこの人が誰なのかを知っている。
腰まで届きそうな、ウェーブのかかった黒い髪。血が通っているのか分からないほど白い肌に、毒々しさの際立つ赤い唇。蠱惑的な瞳から放たれる視線はねっとりとしていて、その色香は私が男だったらごくりと生唾を飲み込みそうなほどだ。
息が、止まった。
どうして、貴女が伯爵の部屋から出てくるの。
どうして、伯爵のバスローブを、貴女が裸の上に着ているの。
部屋の前で足が竦んだまま一言も発せない私を見て、その女性はくすりと笑うと、見かけ通りの酷く艶っぽい声で「こんばんは」と言った。
「ごめんなさいね、驚かせちゃったかしら。可愛い仔羊ちゃんの匂いがしたものだから」
視線が首筋に留められているような気がして、ぞわりと鳥肌が立つ。
隙を見せたら喰われかねないと思った私は、最大の関心事をどうにか頭の隅に追いやって、仕事モードの自分を無理矢理引き出しから引っ張り出した。
「御挨拶が遅れて申し訳ありません。メイドのミオと申します」
「そう、『生贄』ね?」
「……はい」
「こんなことに選ばれて不運だったわね。私はノイエッタ・ディアナ・リンディール」
大げさなほど気の毒そうな声音で言われ、密かにむかっ腹が立つ。
別に選ばれた訳じゃないし、不運でもないわよ、自分で望んで来たんだから。
それから御丁寧に名乗ってくださってありがとうございます。でももう充分存じ上げておりますよ、貴女はこの城でそれはそれは有名ですから!悪い意味でね。
心の中で散々毒づきながら、それをおくびにも出さずに私はにこりと微笑んだ。
「お噂はかねがね。お会い出来て光栄です」
「いいのよ、そんな見え透いた嘘吐かなくても。どうせヴァネッサあたりに悪口吹き込まれてるでしょう」
何だ、悪口言われてる自覚はあるのね。
「ちょっと摘まみ食いするくらい許して欲しいわ。たまの遠出で羽根伸ばしたって、いいじゃないのよねえ」
そう言って頬に手を当てた彼女の唇から、薄く覗いていた白い歯が、鋭い牙へゆっくりと変貌するところを私は目撃した。さすがに驚きを隠せず営業スマイルが崩れると、それに気付いた彼女が「あら嫌だ、男のことを考えるとつい……」と恥ずかしそうに口元を覆い隠す。
そして次の瞬間にはもう、ノイエッタ嬢の歯は元に戻っていた。それでも私はすぐ何事もなかったかのように取り繕うのは難しく、急に生まれた恐怖心によって微かに冷や汗が滲むのを感じた。
「そんなに警戒しなくても大丈夫よ。ヴァンパイアは異性の血しか吸わないから」
ふふふ、と笑って彼女が提供してくれたのは、私には初耳の情報。今までこのお城に女の子だけが集められてきたのは、当主がずっと男性だったからという訳だ。
……待ってよ、それじゃあ仮にこの人がウィランバル家を乗っ取ることになったとして。彼女は純血のヴァンパイアな訳だから、本当に血を吸うための生贄を集めることになるのよね、それも男の。
色んな人の話を聞く限り、性分的に、この人、血を吸うだけじゃ済まなさそう。そしたら、ディアス様がいながら浮気三昧ってことよね。うわ、嫌だ!自分が奥さんに選ばれなくても、この人だけは絶対に嫌。
「あの、失礼ですが……ディアス様の血も吸うおつもりですか?」
膨れ上がって今にも漏れ出しそうな嫌悪感を抑え込みながら、私は妖しい笑みを湛えているノイエッタ嬢に尋ねた。
異性全般が吸血の対象なら、彼女がお行儀の良い――カラカラになるまで人の血を吸い尽くさないヴァンパイアだとしても、伯爵の身が危ない。
「面倒なことになるから、それは我慢するつもりだけど……」
私の問いかけに、ノイエッタ嬢は気だるそうに睫毛を伏せると。
「でも、絶対とは言えないわ。ベッドの上で興奮したら、どうなるか分からないから」
長い髪の毛の先をくるくると指先に巻き付けて、色気たっぷりに意味深な答えを返した。
伯爵を好きになる前までの私なら、「うわ、最低」と思う程度に止まるか、「私に色気振り撒いても無駄なのにな」と冷静に彼女を見ていたことだろう。
だけど、状況が状況で、内容が内容だけに、その返答は私の心の脆くなった部分を容赦なく突き刺した。
何か言い返してやりたいのに、発声の仕方を忘れたみたいに、言葉が出て来ない。
するとノイエッタ嬢はこれ以上特に会話することもないと思ったのか、「それじゃあ、明日は宜しくね」と一方的に告げると――手をひらひらと振りながら、ぱたん、と部屋のドアを閉めてしまった。
扉の前に立ち尽くしたまま、ローブの胸元を掻き合わせて震える。
これは、何なの?夜這いなの?
晩餐会の前に既成事実を作ってしまおうと、乗り込んで来たの?
伯爵はもう、その女と寝てしまったの……?
怒りなのか、悲しみなのか、悔しさなのか、嫉妬なのか。
訳の分からない感情が、一緒くたの激流になって全身に押し寄せ、涙腺を滅茶苦茶に破壊しようと襲いかかってくる。必死で涙を堪えていたら過呼吸気味になってきて、苦しくて、私は廊下の壁に背を預けて荒い息を吐いた。目に映る世界の全ての輪郭が、ぼんやりと滲んでいる。
伯爵がノイエッタ嬢を伴侶に選ぶことがないとしても、今夜彼女とベッドを共にするかも知れない、したのかも知れないと思うと、気が狂いそうだった。自分以外の女の人に、彼の手が触れることを想像するだけで、頭がおかしくなる。
ただ、目の前のドアを蹴破って伯爵の私室に乗り込みたくても、純血のヴァンパイアに力で敵うはずがない。
大人しく自室に戻って、何とか正気を保ちながら長い夜を耐え抜くしかないのだと、自分に言い聞かせようとして強く拳を握り締めた時。
「――ミオ?」
聞き慣れた声が、つい小一時間前まで耳にしていたその声が、私の鼓膜を穏やかに揺らした。
名を呼ばれたその方向に顔を向けると、正装に近い格好にマントまで着用した伯爵が、驚いた表情でこちらを見つめている。
彼がどうした、と私に訊くのと、私が彼に駆け寄ってその胸に飛び込むのとは、ほとんど同時だった。




