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第26話 こんなにも近くにいるのに

「……ディアス様って、本当に皆さんに慕われてらっしゃるんですね」


 いつものように伯爵の背中を流している時、私がふとそんなことを呟くと、彼は顔を僅かに斜め後ろに向けて「どうした、急に」と尋ねた。


「ここで働いている人達は皆、ウィランバル家の事情を知っていて、お城の外が持ち場の人もいるのに……今まで秘密が漏れなかったのって、凄くないですか?」


 花の香りがするたっぷりの泡で伯爵の背中を覆いながらそう言うと、彼がふっと笑う気配がして。


「何かあったら、ヴァネッサに挽き肉にされるからな」

「『挽き肉』!」

「ああ、冗談で言っている訳ではないぞ」


 思わず噴き出した私に対し、伯爵の声音は明るいながらも至って真面目だ。


「十年前だったか……俺が爵位を継いで間もない頃、魔族の血の薄い若造に仕えることに嫌気が差した奴が、脱走して情報を売ろうとしたことがあってな――その時一度は、漏れたんだ」


 淡々と明かされた衝撃の事実に、スポンジを滑らせる私の手の速度がぐんと落ちる。


「でも、今は、その……大丈夫、ですよね?」


 情報が漏れっ放しということは、現状から考えれば有り得ないはず。つまり、どこかで食い止めたということだ。そしてその答えは、かなりのインパクトをもって伯爵から提示された。


「感知魔術と空間移動魔術が使えるヴァネッサが、取引相手もろとも裏切り者を『破壊』した」


 そろそろ泡を流そうと思って木桶に手を伸ばした私は、それにお湯を満たすのも忘れて、ウィランバル家の強烈な過去に鳥肌を立てた。『破壊』という単語が先述の『挽き肉』と結びつき、脳内がちょっとしたホラー映画に侵食される。


「捕縛してディンバラの毒を飲ませるだけでも構わなかったんだが――」


 固まった私の動きに気付いた伯爵が、振り向いて私の手から桶を取り、浴槽からお湯をすくい上げた。


「ヴァネッサがそれじゃぬるい、見せしめにすべきだと」


 そう言ってざばざばと泡を落とし始めたので、はっとした私は慌てて「やります」と彼から木桶を引き取り、お湯をかけ流す作業を繰り返す。


 ぬるいとか見せしめとか、ヴァネッサさんにしては過激だなと思いつつも、ノイエッタ様の名前を出した時に垣間見えた彼女の怒気を思い出して、ちょっと納得もしてしまった。


「……絶対にヴァネッサさんを怒らせないように気を付けます」


 私がぼそりとそう宣言すると、身体中からかぐわしい石鹸の残り香を立ち上らせて、伯爵が「そうだな、俺も気を付けている」と笑う。

 彼はヴァネッサさんのことをとても信頼しているのだろうと思い、ヴァネッサさんもまた、心から伯爵に忠誠を誓っているのだろうと思い――私の知らない十年間を二人が共有しているという事実に、少しだけ妬けた。執事のレオンさんみたいに、伯爵もヴァネッサさんを好きになったりはしなかったのだろうか。


「そう言えば、ディアス様が爵位を継がれたのって、お幾つの時なんですか?」


 考えても仕方のない雑念を振り払い、以前から気になっていたことを、私はこの際だからと思い切って尋ねてみた。

 自分より少し歳上くらいかなと、勝手に思ってたんだけど。八分の一はヴァンパイアな訳だから、寿命も違うのかしら。


「確か、二十五の時だったか」


 伯爵が天井を見上げるような仕草をしながら答える。

 て、ことは、現在三十五歳くらいってことだ。異種族が共存するこの世界では年齢差って全く気にならないことだけれど、元の世界だったら自分とはバランスが良かったかも、なんて小さな喜びを感じてしまう。


「ちなみに不躾な質問だったら申し訳ありませんが、お父様とお母様は……?」


 これも、ずっと気掛かりだったことの一つだった。仮に寿命がヒウムと同等だったとしても、世代交代にはやや早過ぎる気がする。伯爵なんて、ある程度高齢になっても務まるものだというイメージが何となく私の中にはあった。何かの事情でもう亡くなってしまっているのなら、話は別だけど。


 すると、伯爵から返ってきた答えは意外なものだった。


「うちの領地に小さな屋敷を構えて、そこに暮らしている」

「……そうだったんですか」

「生きていて驚いたか」


 くすりと笑われて、少し、と私は答えた。


「お城に一緒にお住まいではないので……」

「ああ、まあ、そうだな」


 そう言って伯爵は、少しばつが悪そうに、長い指で後頭部をぽりぽりと掻く。


「――元々ここに『生贄』として連れて来られた母は、身の回りのことが一切出来なくてな。父はそこが愛らしいと見初めたそうなんだが、当時メイド達を取り仕切っていたジルバ……ヴァネッサの母親が、それは苦労したらしい」


 なんと、ヴァネッサさんは、お母様もメイド長だったのね。優秀な母娘なんだ。って、この会話のポイントはそこじゃないわね。


「早めに隠居して、普通の夫婦のように母と二人で暮らすことは長年の父の夢だったんだが、いかんせん家事がどうにもならず……実は今も、ジルバに世話を焼いてもらっているんだ」


 伯爵の声のトーンが見る見る低く、暗く、落ちていく。この様子だと、彼はお母様の家事の出来なさを目の当たりにしたことがあるのだろう。それは決して彼の責任ではないけれど、ジルバさんに対して抱く恥ずかしさというか申し訳なさは、分かるような気がする。


 お城の古参スタッフさん達が、こぞってスキルの高いメイドを固定メンバーにしたがるのは、これまでに相当な苦労があったからなんだろうな。


「いつか、私もお会いすることが出来るんでしょうか」


 泡を落としてから時間が経ってしまったので、冷えないよう伯爵の身体に再びお湯をかけながら私は訊いた。

 自分の義理の両親になるかも知れない方々だから御挨拶したいというのもあるし、ヒウムでヴァンピールの妻になった人物として先輩であるお母様に、馴れ初めを伺ってみたいというのもある。


 けれど。


「……どうだろうな」


 伯爵の返事は曖昧で、彼はもうこの話題を切り上げたいとばかりに、お湯をかけられている最中なのも構わず椅子から立ち上がった。


 まただ。また、はぐらかされた。


 伯爵のほうから歩み寄ってくれる時も確かにあると感じるのに、こちらから近付くとふいっと離れてしまう。手が触れあったかも知れないと思った瞬間に、くるりと背中を向けられる。


 私の想いは、単なる押し付けに過ぎないのだろうか。あるいは、本気に取られていないのか。

 最初は命だけでも助かりたいという下心がもとだったし、ストックホルム症候群の一種かも知れないと考えたこともあったけど、それでも今は本当に、伯爵のことが――ディアス様のことが好きなのに。


「ディアス様」


 浴槽のほうへと踏み出した彼の背中に向かって、震える声を絞り出す。

 彼がこの先私を受け入れてくれるということが、周りに流された結果だったり、諦めの境地と同じものにしかならないのなら。彼が心から私を欲しがってくれる日が来ないのなら、はっきりそう言われたほうがましだった。


「――正直に仰ってください。私の気持ち、本当のところは、ご迷惑なだけですか……?」


 広いバスルームに、どこからか雫が垂れて水面を打つ音が響き渡った。

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