第23話 優しい熱に、溢れる愛しさ
「……びにいるはうす?」
執事さんに怪訝そうな顔で聞き返された時、私は先走った発言をすぐさま後悔した。
昼間、伯爵に伴われてブラッドベリー農園を視察した時、収穫量の低下は暴風と豪雨による被害のせいだと感じた私は、ビニールハウスにすれば解決する問題だと思ってつい気軽に提案してしまったのだけれど。
この世界には、ビニールというものが存在しない。似たような素材のものも見かけたことがない。
マディのところで生活していた時も、ビニール袋があればいいのに、と思ったことが何度もある。
あれって化学物質を合成したものだから、この世界で同じような素材を作ろうと思っても、私の頭ではとても方法を導き出せそうにない。どうやって生産されていたかなんて、全然分からないもの。
「ごめんなさい、やっぱり今のは気にしないでください」
気まずくなった私が椅子から立ち上がろうとすると、がし、と腕を掴まれる感覚があった。
布越しなのに、燃えるように熱い。ベッドに横たわっている、伯爵の手だった。
「話してみろ」
そう言いながら彼は決して楽そうではない息を吐く。
「……ディアス様、やっぱり凄いお熱ですよ」
「こんなのは大したことじゃない」
少し語気を強めた彼の眼は、あまりに真剣で。
根負けした私は上げかけた腰をもう一度降ろすと、彼の額からずり落ちた氷嚢を戻しながら、ビニールハウス栽培について話し始めた。
薄くはあるけれどもヴァンパイアの血が流れているのと、普段滅多に外に出ることがないせいで、久しぶりに太陽の下を歩いた伯爵は、視察後間もなく体調を崩して寝込んでしまった。
太陽の下と言っても、キールが大きな日傘をしっかり準備してくれていて、それを二人で差しながらだったのだけれど。そもそも陽光に対する体勢が他の種族よりずっと低いのだろう、伯爵は相当な無理をしていたらしく、紅夜城に帰って来るなり玄関ホールの床に座り込んでしまったのだった。
表向きは冷血なヴァンパイアで、そしてそれは確かに偽りの姿なのだけれども。
こういうところは、何だかんだ『ヴァンピール』(この世界ではヴァンパイアとヒウムの混血をそう呼ぶらしい)っぽいなと私は感じ、幾ら彼の中の人間の血が濃くても、厳密な種族の違いを認識させられざるを得ないのだった。
「……つまり、陽光を通しながら、豪雨に耐えうる丈夫な素材でなくてはならないのですね」
一通り話を聞いた後、執事さんは神妙な面持ちで考え込んだ。
「骨組みは何とでもなりそうですが、『被膜』に使えそうなものは……」
「……蝋蜘蛛の糸で織った布はどうだ」
「ああ、なるほど……そうですね、耐久性を調べてみます」
伯爵の提案に、執事さんが頷く。片方は床に臥しているのに、二人の顔はいつもの、執務室で仕事をしている時のそれだ。私がお世話係で役得だと思うのは、こういう出来る男達の表情が見られること。何か釦を掛け違えていたら、ひょっとして執事さんのほうを好きになっていた可能性もあるのかも……なんて、詮無いことを思ったりもする。
「きっとミオさんのいた世界には、『ビニール』のような便利なものが他にも沢山あったのでしょうね」
二人のやり取りを黙って眺めていると、不意に執事さんがこちらを向いてぽつりとそんなことを呟いた。
「恋しくはならないですか?」
続けて繰り出されたのは、明らかに嫌味な問いかけ。
一見こちらの心情を慮ってくれるかのような台詞の、裏側に隠された真の意味を感じ取った私は、むっとしてつい大人気ない返事を投げつける。
「恋しいと答えたら、元の世界に帰れって言うんですか?現時点で帰る術はないですし、この先もし方法が見つかったとしても、私は帰りませんよ」
言いながら、こめかみの辺りがぴりぴりと痛む。
子どもみたいにムキになって、馬鹿みたいだけど。
好意的でなかったとしても敵視まではされていないと思っていたから、ここに来てこんな態度を取られたことが腹立たしく、それ以上に――悲しかった。
うん、ないな。執事さんを好きになっていた可能性は、ない。どう考えても伯爵のほうが魅力的。
地味に傷ついたことを気取られぬよう、つんとした表情を作っていると、執事さんが大きな溜め息を吐きながら、座ったままの私の正面に立ちはだかる。
「ディアス様が視察に出掛けられることは、年に何度か――多くはありませんが、あります。ですが今日のように外界の天気が良い時に出られるのは、幼少期に同じように体調を崩されてからは、ただの一度もありませんでした」
なぜ彼が突然そんなことを話し出したのか、今度は意味を量りかねて、私は眉間の皺を濃くした。
何となく、責められてるなという雰囲気だけが伝わる。
だけど、どの部分を?
作物の様子がよく分かるからと、晴れた日を選んだのは伯爵自身で。
執事さんではなく私を連れて行くと決めたのも伯爵自身で。
直射日光が強めだから馬車で待っていたほうが、と言った私に、日傘に入れば大丈夫だと答えたのも伯爵自身で……。
「ここまで言っても、分かりませんか?」
反応がいまいちな私にしびれを切らしたらしい執事さんが、腕を組んでこちらを見下ろしながら、やれやれという吐息を漏らした。
「――ディアス様は、ヒウムである貴女を、久方ぶりに陽光に触れさせて差し上げたかったのですよ」
「レオン」
執事さんが言い終わらないうちに、伯爵が彼の名を呼んで牽制する。照れ隠しのつもりだったんだろうけど――その前に私の心には、充分過ぎるくらいに優しさが響いていた。
「お心遣い、感謝いたします、ディアス様」
氷嚢がずり落ちないよう額に押し付けている彼の、空いている方の手の甲に自分の掌をそっと重ねる。
「これからは、陽射しが強い日の視察は私にお任せくださいね。そうでない日はまた今日みたいに、デートに連れ出してくださると嬉しいです」
もう、視察に関しては執事さんの出番はないわよと言わんばかりにアピールする。
高熱のためにとにかく辛そうで、いつもより表情の変化が少ない伯爵だったけれど、それでもこの時は唇の端が微かに持ち上がったように見えた。
「それにしたって、今日のレオンさんは意地悪ですよね。反対はしてないと思ってたのに」
わざと執事さんの地獄耳でぎりぎり拾えるくらいの小声で伯爵に囁くと、案の定、執事さんが片眉をぴくりと動かして割り込んで来る。
「ディアス様が無理をなさるなら話は別です」
「私が傍にいると悪影響だってことですか!?」
言われっ放しじゃ気の済まない私が食って掛かろうとすると、
「――レオン、押している仕事のほうを頼む。看病はミオ一人で大丈夫だ」
伯爵が遠回しに止めに入った。しかも、執事さんを厄介払いするような形で。
執事さんは一瞬ぽかんと口を開けた後、何か言いたそうなのをぐっと堪えて、「畏まりました」と美しいお辞儀を披露した。そして「宜しくお願いいたします」と会釈する私に睨みをきかせつつ、伯爵の私室から廊下へと、決して軽やかではない足取りで消えて行く。
「勝った」という思いがどうしてもこみ上げて来て顔に出てしまいそうになるのを我慢して、私は伯爵ににこりと微笑みかけた。
「煩くして申し訳ありません。もうお寝みになってください。私はずっとここにいますから」
重ねたままの手を、軽く握る。すると手の甲をくるりと返され、今度は伯爵のほうからしっかりと握られた。熱があっても力の強さは健在のようだ。
やがて伯爵の瞼がゆっくりと閉じられ、程なくして彼の意識は眠りの世界へと旅立った。手を握られていることで安心したのか、先程まで苦しげだった呼吸は幾らか穏やかになっている。よく休めば、明日にはきっと良くなっているだろう。
初めて見る、伯爵の無防備な寝顔。
それを私はとても幸せな気持ちで、そのまま何時間も眺めていたのだった。




