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第18話 嫉妬という名のスパイスの効果

「レオンさんて、応援こそしてくださらないけど、反対もしていないみたいなんですよね、私のこと」


 参照し終わった大量の資料を年代順にキャビネットに戻しながら、私は伯爵にぽつりとそんなことを漏らした。今日は珍しくカーテンが開いていて、凄い勢いで窓を叩く雨の様子がよく見える。普段カーテンを閉めっ放しなのは、伯爵も八分の一とは言えヴァンパイアの血が入っているので、太陽光があまり得意でないからとのことだった。このお城の上空はいつも暗いから、あまり関係ないような気もするんだけど。


 『開かずの部屋』に入ったあの日から一週間が過ぎ、私達は秘密を共有している者同士として何となく距離が縮まってきていた。そこに男女の仲めいた甘さはまだ、ない。だけど伯爵は以前よりずっと多く言葉を交わしてくれるようになったし、今はこれでいいと思うことにした。


「まあ、早いとこ俺に身を固めさせたいのと――お前の境遇に自分を重ねたんだろうな」


 羽ペンを机の上に置いた伯爵が、右肩に左手を当ててコキンと首の骨を鳴らす。私はさっさと資料を仕舞い終えると、座っている彼の後ろに回ってマッサージを始め、「どういうことですか?」と続きを促した。


「……ここ以外に居場所がないのはあいつも同じなんだ。レオンはこの城で生まれ、ここ以外を知らない」


 気持ち良さそうに目を瞑りながら、伯爵が話し始める。


「父が集めたメイドの中に、身籠っていた者がいてな。本人も城に来るまで気付いていなかったもんで処遇に困ったらしいんだが、俺が生まれて間もない頃だったから、遊び相手に丁度良いとそのまま産ませた――それがレオンだ」


 驚きよりも、納得のほうが勝った。ヒウムでありながら、魔族の流れを汲むウィランバル家に仕えている訳。生まれながらにしてこのお城にいたなら、ディアス様に忠誠を誓う腹心の部下となるべく育てられて当然だろう。


「それで、そのレオンさんのお母様は……?」


 伯爵の肩を揉む手を緩めぬまま、私は恐る恐る尋ねた。

 今、レオンさんだけがここにいて、お母さんがいないということは。然るべき時が来て、お母さんだけが記憶を消され外に出されたのだとしたら、あまりに残酷だ。


 しかし、現実はもっと悲しく、切ないものだった。


「……出産が上手く行かなかったらしい。レオンも仮死状態だったと聞いた」


 伯爵のいつもよりずっと低い声音に、私の心がちりりと焦げ付く。


 記憶を消されて親子として引き裂かれるよりも、レオンさんの母親として亡くなったのは、考えようによっては不幸中の幸いと言えるかもしれない。それでも、いずれにしろお母さんを失う運命だったレオンさんの孤独は、想像に余りあるものだ。この紅夜城こそが、ディアス様こそが彼の全てなのだと分かると、執事という仕事に心血を注ぎ込んでいるのも頷ける気がした。


「裏庭に幾つか墓標がある。そのうちの一つがレオンの母親のものだ」

「……後で、お花を手向けておきますね」

「ああ」


 具体的にどうこう言わなくても、言葉の端々に伯爵がレオンさんを大事に思っていることが滲み出る。彼にとっては兄弟も同然なのだろうと思ったら、やはり伯爵の奥さんになるには、レオンさんにも快く認めてもらうべきだと思った。『反対されていない』なんてレベルじゃなくて。


「あ、ところで」


 不意にあることに気付き、私は斜め後ろから伯爵を覗き込むようにしながら問いかけた。


「ディアス様が生まれた少し後にレオンさんが生まれたということは、レオンさんも『いつ結婚してもおかしくない歳』なんですよね?」

「まあ、そうだな。あいつももう三十を過ぎている」

「別に、執事さんが結婚しちゃいけない決まりはないですよね」

「ないな」

「なら、人の心配ばかりしてないで、御自分のことも少しは考えたらいいのに」


 何とはなしに振った話題に、伯爵がにやりと微笑してこちらを向く。


「それはなかなか、難しいと思うぞ」

「あら、どうしてですか?」

「あいつは昔から、ヴァネッサに惚れているからな」

「えっ……!!」


 思わず大声を上げそうになって、慌てて片手で自分の口を塞ぐ。

 普段、二人が接触しているところを見ても全く気付かなかったけど、あの執事さんがねえ……。分かりやすくデレないところが大人というか、彼らしいというか。


「ちなみにヴァネッサには夫がいる」


 甘酸っぱい恋話だと思って唇の端が緩みかけたところを、伯爵の衝撃の一言が容赦なく襲った。

 会ったらそれとなく揶揄からかっちゃおうと思ったのに、まさかの苦い片想いとは。


 執事さんのあの生真面目な性格からして、ヴァネッサさんを旦那さんからろうなんていう発想は、まず出てこないだろうなあ。私も決して不倫賛成派ではないから、それはそれでいいんだけど、彼が思いを秘めたままこの先ずっと独身を貫くのかと思ったら、何だかちょっぴり寂しくなってしまった。


 すると。


「――今日はレオンの話ばかりだが」


 不意に、伯爵の手が、彼の二の腕辺りを揉み解していた私の手をぐっと掴んだ。


「俺の妻の座を所望しておきながら、もう浮気心が出てきたか?」


 首を少し後ろに傾げて私に寄越した視線が艶っぽく、どきんとさせられる。


「妬いてくださってるんですか?」

「――一つ、良いことを教えてやろう」


 彼は私の問いには答えず、手を掴んだまま椅子から立ち上がると、そのままずいっと踏み込んできて私を壁に追い詰めた。空いていたほうの手も取られて頭上で一纏めにされ、囚われたような状態になる。


「ヴァンパイアの能力の中で、俺が唯一引き継いだものがある。何だか分かるか」


 身動きが取れないのをいいことに耳元で囁かれ、掛かる吐息に身体が跳ねた。バスルームと違ってお互い服を身に着けているのに、バスルーム以上に悩ましいシチュエーション。感覚が鋭敏になっていて、うるさいのは窓の外の雨の音なのか、自分の心臓の音なのか、もう分からない。


「……実は蝙蝠に変身出来る、とか?」

「力の強さだ」


 伯爵の声が色っぽく鼓膜をくすぐる。言われて、試しに彼の手から抜け出そうとしてみたけれど、本当にびくともしなかった。まるで鋼の手錠ごと壁に留められてしまったみたい。伯爵は私を必死に押さえ込もうとしているどころか、力を入れているようにすら見えなくて。ヒウムとの混血による弱体化がばれたところで、この剛腕があれば大丈夫なんじゃ、とつい思ってしまう。


 で、確かに凄い、と感心したのはほんの束の間のことだった。


 首元のリボンを伯爵に唇で解かれた瞬間、私の思考は停止した。

 腰に着けていたはずのエプロンは、いつの間にやら自由だった伯爵のもう片方の手に絡め取られており。唖然としたところに伯爵の顔が降りてきて、胸のボタンを一つずつ、器用に歯を使って外されてゆく。

 ちょっとちょっと、こんな技、元いた世界でも早々お目に掛かれるもんじゃありませんでしたけど!かなり場数踏んでるプレイボーイでも、会得している人は少ないと思うんですけど!


 ――その時。


「……御二方、執務室が何をする部屋か御存知ですか?」


 執事さんの声が耳に飛び込んできて、私は咄嗟に小さく悲鳴を上げた。興をがれて失望した様子の伯爵が、執事さんをじろりと睨みつける。


「ノックもせずに無粋だな、レオン」

「しました!声もお掛けしました!お二人が気付かなかっただけです!」


 結局この日は、それ以上危険な状況になることはなく。

 私はほっとしたと同時に、少しだけがっかりもしていたのだった。

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