第10話 ハードルが高いほうが、燃えるんです
「失礼いたします、ディアス様。本日は少々、入浴時間が長過ぎるようですが」
ほんのり危険なムードになりかけたその時、バスルームの入口の辺りから、姿こそ見えないものの執事さんの声が聞こえてきた。
どうやら、このバスルームとはワインレッドのパーテーションで仕切られているだけの、隣の脱衣スペースにいるらしい。一瞬、同じ空間にいるのかと勘違いして、私は思わず伯爵に握られていないほうの手で胸元を押さえてしまった。
するとその反応を見ていた伯爵が、「おい、レオン」と呼び掛ける。
「はい、ディアス様」
「明日から、この薄布がなくとも済むように、ミオをしっかり仕上げておけ」
「……かしこまりました」
やや戸惑いがちな響きを含んだ返答の後、コツコツと足音が遠ざかってゆく。それと時を同じくして、伯爵が徐に立ち上がったので、私は顔を横に向けて彼から視線を離した。
「俺は先に上がるが、お前はこのままここで待っていろ」
「え?は、はあ」
裸を見まいということに意識を取られ、つい生返事をしてしまった。しかし伯爵はそれを別段気に留める様子もなく、私からあっさりと手を離すと、バスルームを悠々と出て行った。
ええと私、どうしてここで待機なんだっけ……?
しばらく緊張していたせいか、湯気にあてられたのか、頭がぼんやりしてうまく働かない。
そこへ、程無くして魔族のお姉さん達が三人、どやどやと入って来た。
髪の色はばらばらだけど、みんな猫目石のような瞳であるところを見ると、ヴァネッサさんと同じ種族かも知れない。
「貴女、幸運な人ねえ。ディアス様に肌を見せることを許されるなんて」
「ほーんと、羨ましい。こんなことなら私もヒウムに生まれたかったわあ」
「レオン様からぴかぴかに磨き上げるよう仰せつかっておりますので、お任せくださいね」
口々に色々なことを言われ、あれよという間に薄布を取り払われ、クリームやらオイルやらを身体中に塗り込まれてマッサージされ。
気付けばブライダルエステのフルコースでも受けたかのように、艶々ぷるぷるの肌に仕上げられていた。お手入れをしてくれた三人が、非常に満足気に私の裸を上から下まで眺めている。
「うん、最高ね!ディアス様もきっと喜んでくださるわ」
「ほんとほんと。背中流すだけじゃ済まないわよぉ、きっと」
「これから、定期的にこの施術を受けていただきますね」
彼女達は、入って来た時と同じように姦しくバスルームを出て行った。
マッサージのお陰か身体はすっきりと軽くなったけど、精神的な疲労がどっと襲いかかってくる。
何だか今日一日で、色んなことがあり過ぎたな……。
重い足取りで脱衣スペースに向かうと、昨日・今日と続けて着ていた生成りのワンピースはどこかに持ち去られていて。代わりに、シルクのような素材の上等そうなローブが籠に入って置かれていた。それも、下着ごと。
これ、誰が用意してくれたんだろ……。まさか執事さんじゃないよね。きっとヴァネッサさんだわ、来た気配なかったけど。そうに決まってる。
新しい下着を身に着け、ローブに袖を通し、ざっと身支度を整えてその場を後にする。
すると廊下に出たところで執事さんが待ち構えていたので、思わず跳び上がってしまった。
「ディアス様は随分貴女をお気に召したようですね」
それまで柔らかな物腰の人だと思っていたのに、今私に向けられている視線はやや冷たく、声音には棘がちらついている。自分の仕えている御主人様が、人間の女にちょっかいを出すのがあまり面白くないのだろう。無論、この下着を用意してくださったのは貴方ですか?なんてとても聞ける雰囲気ではない。
「貴女はよく働いてくださいますし、ディアス様のご意向に口を挟む気はありません。ですが、貴女のためを思って忠告はさせていただきます」
壁に背を預けて腕を組んでいた執事さんが、すっと私の前に立ちはだかる。
「あまり、深入りはしないように――後悔することになりますよ」
彼はそれだけ言い放つと、こちらにくるりと背を向けて立ち去ろうとした。
その時、どうも我知らずカチンと来たらしい私の口から、咄嗟にこんな台詞が飛び出る。
「でも、メイドから伯爵夫人というケースも、珍しくはないんですよね?」
ここで言い返すのは大人気ないと思う自分も確かにいた。だけど、言われっ放しはどうも性に合わなかったみたい。
途端に、執事さんが踏み出した足がぴたりと止まる。
「……ディアス様は、ただの伯爵ではありません。ヴァンパイアなのですよ?」
「勿論、分かっています」
「貴女は、魔族に抱かれることを厭わないのですか」
執事さんが強張った面持ちで振り返った。先程よりももっと鋭い視線。だけど私は怯まなかった。
実は、異世界に飛ばされてきて間もなく、分かったことがある。
この世界は、異種族の共存をとても大事にしているけれど、その血が混ざり合うことだけは善しとしていない。それぞれのプライドの問題だけではなく、単純に異種族間の混血というのは非常に生きにくいようなのだ。
というのも、元いた世界では、例え人種が違っても同じ人間であることに変わりはなかったけれど、ここでは種族が違えば身体的特徴が大きく異なるため、混血種はどちらの特徴がどのような形で出るのか、生まれてみるまで分からないから。
そして空も飛べなければ水中呼吸も出来ない、非力なヒウムと交わることは、多くの種族にとって弱体化を意味していた。
でも、だからこそ、ヴァンパイアのほうから望まれるというのは、凄いことなんじゃないのかと思ったりして。
「……私は、『お食事』されないチャンスが転がっているのなら、どんなものでも掴みます」
それは最早、私からの宣戦布告だった。遅かれ早かれ、私が大人しく血を吸われるつもりはないと、どうせすぐに分かってしまう。ならば、例え今後妨害されることになったとしても、立ち位置を明確にしておいた方が得策だと思った。だって伯爵の私への関心は、もう既にゼロではないんだから。
すると執事さんは額に掌を当て、「まさか今頃になって貴女のような人が現れるとは……」と呟いた。きっと今までここに連れて来られた女の子達は、従順な娘ばかりだったんだろうな。
「これ以上何を言っても無駄でしょう。野心を持つのは悪いことではありません。お好きに足掻いてみてください」
「はい、そうさせていただきます」
私はにっこりほほ笑んで深々とお辞儀をし、執事さんの横をついっと通り過ぎた。背後から、廊下中に響き渡るくらいのそれはそれは大きな溜め息が聞こえてくる。
この際だからとことん強かにいってやろうと決意した私の足取りは、バスルームを出た時とは比べ物にならないくらい軽くなっていた。




