第二章(5)
騒ぎの後、使用人たちが後片付けに追われた日の、正午。
河原に立って、イエルは隣の少年に尋ねた。
「ここだったのか」
「はい。川上から仰向けに流れてきたそうです。最初は、生きているふうに見えたと発見者たちは言っています」
「発見者は複数?」
「夜、蜜月の恋人たちが空の星より多く集まるので有名なんですよ、ここ」
そばかすの少年は、あくまで生真面目に言う。
衛兵の制服を着ている。若いが、一人前の兵士だ。
盲目になりそうな正午の水面の輝きに、イエルは目を細めた。
その隣で、私は身を乗り出す。
「それ、おかしいわね。死体遺棄したヤツは、ここに夜、人が集まるって知らなかったのかしら」
「そこまでは分かりませんが」
一旦自然に応じた少年は、言葉を切った。
私を見て、目を見張る。
驚愕の硬直。
戸惑いに口を開きかけ、寸前、イエルを責める目で見上げる。
「あの、イエル様。お知り合い、ですか」
言われる前に私を見ていたイエルの顔は、酷かった。
ナツメの刺繍の縫い目よりひきつっている。
彼は青息吐息で、それでもどうにか笑顔を見せた。
「姫さん…?」
「いいえ、私は夜の女王」
しれっと言えば、イエルは頭を抱える。
ばちん、と痛そうな音がした。
「だったらあかるいうちにいたらダメじゃん、ってか、うん、紛れもなく姫さんだね…」
幻でないと分かったら、今度は頬をつねった。夢でもない。
観念したイエルは小声で叫ぶ。
「どうしてここに、いやいつから!」
朝食が終わって、イエルが館を出たときから私は一緒にいた。
河原に行くのではないかと思ったからだ。
そして、数時間さまよい、今は正午。
物覚えの悪い彼は、方向音痴という、塗る薬のない病にかかっている。
途中、幾度も痺れが切れそうになったが大当たりだ。
「後ろくっついて歩いていたわよ。気付かなかった? だめねー」
声はかけなかったが、糊で貼り付けたように長身の真後ろにいた。
気付いていないとは、私も驚きだ。
「私が刺客だったらどうするの」
「姫さん相手に警戒働くわけないだろ」
そういう次元の話ではない。
ここに辿り着くまでイエルは、闇の中絶壁を歩くような命懸けの危機感・悲壮感を漂わせていたが、周りの状況にも気が回らないほど一生懸命とは思わなかった。
とは言え、それほど必死だったわりには。
「ここに辿り着くまでに五回は迷ったわね、イエル」
「いや、八回」
几帳面な訂正は、私の中の数少ない彼の株を大暴落させる。
「カサネに、出かけるついでにって買い物頼まれたんだけどさ、店探していたら本格的に迷った。しかも店見つからない内にここに辿り着いてた」
「役立たず」
私は情け容赦なく一刀両断。
イエルはなぜか照れて頭をかく。
反省の言葉を知らない彼を尻目に、そばかすの少年はにこりと笑った。
「今日はまだましな方ですよ。お会いする約束は、朝一番でしたが、この時間ですから」
私は空を見上げる。
太陽は真上にあった。
「心が広いのね」
「心の広さより、胃の強さがほしいですね」
しみじみ苦労を分かち合う。
空気を読まないイエルが、能天気に片手を挙げた。
「ちょっと待った。姫さんひとり?」
「ナツメがいるわ」
「ああ、カサネの兄弟子さん」
イエルは伝説の生き物との遭遇を心待ちにする探検家の目で、周囲を見渡す。
彼らに面識はないのだ。
今だって、どこかに潜んでいるのは分かるが、姿は見えない。
ナツメを見たことがあるのは、タキとヴァルとカサネくらいだろう。
実は昔馴染みの私も声しか知らない。
「簡単には見つけられないわよ」
「だな。いるのは分かるんだけど」
イエルは白い歯を見せて笑い、手持ち無沙汰のそばかすの少年の肩を叩いて労った。
「報告ご苦労さん。なんか進展あったら教えてくれ。身元はまだ分からないんだな」
少年は真摯な顔つきで姿勢を正す。
愚痴をこぼしながらも、イエルを見上げる瞳には、無垢な憧れがあった。
「はい、イエル様。目下、捜索中です。それでは、失礼致します」
河原を去っていく部下を見送り、イエルは全身から息を吐き出す。
「姫さん、オレはこの件、なんか分かったら報告するって言っただろ」
「覚えてたの」
「美人との約束は忘れないよ」
能天気なイエルらしくない責める声音に、ごめんなさいと素直に謝れる性格なら、苦労はない。
私は上目遣いに拗ねた。
「そう? なら、一緒にゴルベの店に寄ろうって約束は?」
「へ」
「覚えてないの?」
とたん、イエルは難しい顔で考え込む。
「ごめん、オレそんな約束したんだ?」
「うん。行ったことあるから、案内ならオレに任せろーって言った」
「でも今、それはさすがに」
深刻なイエルに、私はけろりと言った。
「嘘よ」
絶句したイエルを放って歩き出す。
「仕方ないわね、ナツメと二人で行ってくるわ」
今日はフリーダに言ったように、私は番人のことを調べるつもりだった。
朝食後、その予定は遠慮なく後回しにした。
既にナツメが妾たちの現状すべてを把握していたからだ。
夜の間に動いたのだろう。
ならば優先すべきは、彼女たちの安全だ。
前太守が召抱えた妾は多いが、六年前のあの日、彼の元にいた妾は、五人。
内二人は、私の目の前で死亡。
ナツメは、イエルが話に上げた河原で死んだ女もそうだと言った。
先ほどの話では身元はまだ不明のようだが、ナツメの言葉に間違いはない。
五人のうち、三人もが一日も経たない内に死んでいる。
残る二人の命の安全を確保することは、急を要する。
フリーダなどは自分の安全を第一に考えてくれと不満顔だが、毒から来る痛み程度、私にはどうということもない。
頑丈なのだ。
けれども、残された二人は、無力。
ただの女なんだから。
彼女らの居場所は明らかだ。
一人は、街外れの森で庵を構えている尼僧、もう一人は、富豪の妾。
その富豪と言うのが、ゴルベだった。
今朝の襲撃とこの件は、無関係なんだろうか?
考えながら土手を登り、河原から通りに出た。
「待った、姫さん。ちょっと」
声がして、私は足を止める。
イエルが前へ回り込んだのだ。
顔を上げると、やたら周囲の視線を集めていることに気付いた。
衛兵の制服は、外では目立つ。
制服自体は機能を優先して地味な造りだが、常勝不敗の東の戦士と言う肩書きは、憧憬と尊敬の的なのだ。
その上、イエルは背が高く、常に槍を持ち歩いている。
視線が、砂糖に群がる蟻みたいにまとわりついてきた。
聡い者は、ここにいる狼のように精悍な男が、闘将イエルと気付いているに違いない。
そのせいか、周囲の好奇の眼差しは、どこか遠巻きだ。
なにせ、イエルのふたつ名は、決して褒め言葉というだけではない。
―――――積み上げた敵の血と肉をもって、東の最強を思い知らせよう。
かつて冷徹に呟いたイエルは泣く子も黙る無慈悲な戦士として、近隣諸国に名を轟かせている。
私には、人の好いお兄さんなのだが。
「オレも行く」
「え。目立つから邪魔よ」
イエルはメゲた。懲りずに、すぐさま食い下がる。
「姫さん放っといたら、オレ大将に殺されるし」
「おとなしく殺されるの?戦わなきゃ」
「お願いです、お供させてください」
「笑いながら泣かないで」
さて、本気で邪魔だ。
言えば、すすり泣きが号泣に変わりそうなので、額を押さえるにとどめる。これ以上目立ちたくない。