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遺書

僕はここに遺書を書き残す。


僕は、関東圏、埼玉に生まれた。

出生時のことは覚えていない。当然だ。


喜ばれて生まれたのか、それは分からない。

きっと、喜ばれて生まれたんだろうと、僕は思う。


僕が3歳だか、2歳の時に両親は離婚した。

当時、僕には年子の弟がいた。離婚したのがいつかは分からない。

僕はとある日、父親に車に乗せられた。どこに行くかとか、そういうのは言われなかったと思う。


車の中で、父親は言った。

「結佐、そろそろお母さん変えてみようか。」

「え?」

たぶんそう答えたんだろうか。多分その自分の僕には言葉の意味が理解できなかったのだと思う。

しばらくして、駅に着いた。

駅で待っていると、車に知らない女の人が乗ってきた。

「遅いよ。」

そんな事を呟いていた気がする。


それから家へと戻った。

家に着くと、母親も弟もいなかった。

それから何年経っても、弟と母親は家には戻ってはこなかった。

引越しをするまで、ただの一度も母と弟はこの家の敷居をまたぐことはなかった。


僕が4歳になったころ、継母が身篭った。

「女の子じゃなかったら捨てようかな。」

そんな冗談を飛ばしていた気がする。

実際のところ、僕と継母は初めて出会ってからここまでの間、ほとんど会話をしていなかったと思う。

一度、オムライスが夕食の席で出された覚えがある。

味は覚えていない。でも、美味しくなかったと感じたんだろうな。

「美味しくない。」

僕はそういったんだと思う。

すると継母は、機嫌を損ねた様子で「じゃあもういい、出て行く。」

そんな言葉を告げて、家を出て妹を連れて車に乗り込みエンジンをかけた。


子供ながらに、「しまった」と思ったに違いない。

「ごめんなさい!」と必死で叫びながら後を追いかけた気がする。

その後のことは覚えていない。


僕は当時保育園に通っていた。

けど、休みの日や保育園に行っていないときは、僕はずっと一人遊びをしていた。

自分の部屋で、プラレールやNゲージを使って遊んでいた。

スイッチを入れれば自動で動くというのに、僕は自分の手で動かすのが好きだった。


どうにもならない状況に、無意識に自分でレールを敷きたいと思ったのかもしれない。

自分の手では動かせない物事への、無意識の抵抗だったのかもしれない。


僕は絵を描いて遊んでいたのも覚えている。

当時から僕はゲームが好きだった。ゲームボーイなんかで遊んでいたのを覚えている。

釣りのゲームと昆虫採集のゲームが好きで、ずっとそればかりやっていた。

ゲームの中で、名前のかっこいい「ブラックシャーク」なる魚を釣り上げ、うれしくて絵を描いたのを覚えている。

ビデオでみた歩く魚「ホウボウ」のように足を生やして、遊んでいた。

親との会話はほとんどなかったと思う。


父親は仕事の大事な時期だったのか、はたまた付き合いで接待でもしていたのか、あまり家に帰ってきていた覚えがない。

それでも、このときは、僕は父親のことを好きだったはずだ。

多分。きっと、そうだったはずだ。


僕が4歳になってしばらくだろうか。5歳だったかもしれない。

とうとうその家を引っ越した。間違いなく覚えているのは、妹が生まれてから引っ越したということと、保育園に通っている間に引っ越したということだ。


引っ越してから、しばらくの間、やはり継母との会話はほとんどなかったと思う。

夏場の夜、暑くてクーラーをつけたら、少し怒った様子で消しにきたことくらいは覚えている。


引っ越す前の家でも、引っ越した後の家でも、僕には入っちゃだめだといわれている部屋があった。

特に思うことはない。思っていなかった。無意識下ではどうだったかといえば、多分何かしら引っかかっていたんだろう。

だから、入ってはいけないという部屋に入ると叱られた覚えがある。


当時、引っ越した先の家は二世帯住宅であり、外付けの階段の先、2階部分に当たる家には祖父母が住んでいた。僕は祖父母が大好きだ。大好きだ、というのは、今でも大好きだからだ。


祖父は幼い僕をよく犬の散歩に連れて行ってくれ、一緒にキャッチボールをして遊んだ。

犬の手綱を引かせてもらい、暴走させて笑っている横で、あせった様子で犬を追いかけたりしているのが楽しかった。

父親はよく祖父の悪口を言っていた。僕もそれに影響されて悪口を言ったり、言われていたと思う。


そのときに一緒に遊んでいた犬は、キャリーという。

僕が当時好きだったウルトラマンシリーズに出てくる航空機、ピースキャリーから名前を取った。ピースの方がよかったとみんな言っていたけれど、僕はキャリーが好きだった。

オスだったけど、そういう概念とかは理解できていなかったんだろう。


キャリーは3年前くらいに死んだ。老衰だったみたいだ。パピヨンだったキャリーは、飾り毛が二度と生えてこないということを知らない祖母が切ってしまったので、パピヨンらしからぬ見た目になってしまった。

それでも、かわいくて仕方がなかった。

絶対に噛まない犬だった。好奇心旺盛で、誰にでもなつくし、飛び掛って顔中を舐めるような犬だった。

いつも元気で、家中を全力で走るような犬だった。大好きだった。


祖母のことも大好きだった。とにかく優しかった。甘い、なんてもんじゃない。

よく世話を焼いてくれる、「お袋」とか「オカン」みたいな性格で、気の強いがとても優しい人だ。

夜中、一人でいるのがさびしくて、祖父母の家に泊まりこみ、一緒にサスペンスを見たりして、寝ていたのを覚えている。

最初のころは、一人で寝るのが怖くて、父親に電話が行って自宅に戻って寝たこともある。


祖父母は、今でも僕のことを愛してくれていると思う。

祖母は少し耳が遠くなった。まだ、ボケてはいないが、すこしボケも始まっているのかも。


小学生になった僕は、近所の家に住んでいるジョー君という4つ上の上級生と知り合いになった。

ザリガニかなんかを帰り道に取ろうとして、そのときに出会った。

パワフルで面白い兄貴肌の人だった。下級生である僕をよく誘い、いろんなところに連れて行ってくれた。

トカゲを取りに行ってハチに刺された痕は、今でも右手に残っている。


見るたびに思い出す。元気だろうか。

今でも近所に住んでいるというわけではないが、市内の鳴子のチームに入っていて、今では立派な社会人だ。


僕の人生において、彼の影響はとても大きい。また会いたいと思っている人の中の一人だ。


対して、僕にはハトコが居た。ユーヤと言うのだが、僕よりひとつ上であり、いわゆる悪友というようなやつだ。

父親の従兄弟の息子であり、現在では4兄弟の長男。まぁ、今何をしているかは知らないのだが。

悪い遊びは彼から知った。近所の山を公園にしたような場所で、落ち葉を集めて火を付けてみたり、近所のマンションの自転車のタイヤチューブの栓を軒並みブチ抜いたり。

正直まともではない。

お金にうるさかった覚えもある。うるさいというよりは、汚いというべきかも知れない。

おそらく悪い影響のほとんどは彼から受けた。

でも、それを補って、一緒にたくさん遊んだのも覚えている。

特にトレーディングカードゲームで遊ぶのは流行った。が、僕のカードを盗み「拾った」と嘯いて壁にガリガリと押し当てて遊んだり、ゲームのソフトを盗み、そこに名前が書いてあるのを知らないで僕に見せ、取返したのも覚えている。


彼は今何をやっているんだろうか。会いたいかといえば、そうでもない。


また、小学校では、僕は一時期イジメられた。

近所に住んでいる悪ガキの代名詞が居た。そいつの家が僕の家と近かったので、帰り道に絡まれて、散々脅かされながら帰ったこともある。

成人した今、たまに会うことがある。僕が慣れたのか、彼が丸くなったのかは知らないが、なんだか普通に話して普通に笑い会えたことは、僕の中で純粋な驚きとして残っている。


やがて、中学生になる。


中学でも、やっぱり一時期上述の悪ガキにいじめられたけど、そんなに厳しいもんではなく。

まぁそれなりに過ごしていた。

このころは完全に僕はゲーム中毒者で、将来の夢はゲームクリエイターだと豪語していた。

そのうち絵に興味が出てきて、がんばって絵を描いたが、美術だけ評定が2とかだったのを見て、僕は進学先をデザイン系の高校に決定した。

当時の僕はまったく勉強はしなかったが、それなりの成績を上げていた。

それゆえ、追い込みの3年生の秋までずっと遊びほうけていた。

秋ごろから塾に通わされ始め、そしてそのまま「定員割れ」していたその学校へと進んだ。


ここまで、「挫折」というものを味わっていなかった。

「やらなくてもできる人種なんだ」と僕が思い込んでしまったのは、本当に悔やまれる。


デザインの学校では、さまざまなものを学んだ。その一方で、普通の勉学というものはほとんどと言っていいほど習わなかった。

デッサンの授業は楽しかった。しかしその辺りからだろう。

努力をしなかったツケが回ってき始めた。

周りがきれいなものを描く中、僕は一人自分に満足できないで居た。

親友と呼べる人間もできたが、学科が違う。

僕は後悔し始めたが、時すでに遅し。


何度かの恋愛も経験したが、長くは持たなかった。

ゲームにのめりこんだ。FPS。ネットゲームだ。のめりこんだ。

今でも5年ほど中の続いているネット友達が居て、そいつらと一緒に楽しく遊んでしまっていた。

このころは、まだ現実的なお金の使い方をしていた。


卒業し、大学には落ちた。

一年フリーター生活。自分で金を稼ぐことを知った。

稼いだ金はゲームに消えていった。いくら費やしたかは分からない。

けど、明らかに金遣いは荒かった。このときに、時勢というものを覚えられなかった自分を殺してやりたいとも思う。


20歳になり、僕は専門学校へ入学した。デザインのだ。

このころ、20歳になってタバコを吸い始めた。どんどん量は増えていき、タバコの匂いが僕を覆っていたようで、級友たちからは煙たがられた。

それに気づいたのと同時、僕のクラスメイトは女子が大半であり、そういう匂いとやらに気を使っていなかったのも災いした。

僕は孤立したのだ。

僕は余計にゲームにのめりこんだ。自分を差別しない友人と遊ぶことに時間を費やした。

それでも、持ち前の運のよさと要領のよさからか、就職先を手に入れた。

このころから、学校に顔を出さなくなる。

学校が嫌いだった。


修了式にも出なかった。

このころには、借金ができていた。

FXと、ゲームへの課金。額は僕が一年働いても返せない額。

誰のせいでもない、自分のせいだ。


会社は、9時30分には出社し、出るのは11時か12時。

僕のストレスは限界だった。残業代は1円も出ない。

気づけば、僕は不安神経症という精神病にかかり、仕事をやめていた。


両親が借金のことを知ったときには、サラ金で4社から借りていた。

身動きが取れなくなり、両親にばれた僕は、父親に殴られ、蹴られた。

母親が止めなかったら、僕は死んでいたかもしれない。


バイトをし始め、それでも減らない借金。当然だ。

とうとう我慢しきれなくなり、実母の方の祖母へと連絡を取った。

遺産の生前贈与によって、僕の借金は綺麗さっぱりだ。

けど、僕は家に居るのが精神的にきつかった。

居づらいなんてレベルではない。


バイト先の親会社に僕は入社した。

残業代も出る会社だったが、すでに僕はもう社会不適合者なんだろう。

3ヶ月で適応障害になった。


そして、今に至る。


僕は思う。


生まれる世界を間違えた。

もしくは、人間として生まれるべきではなかった。


僕に生きる価値はないのだと思う。


そもそも、この先何を楽しみに生きるとかも考えられない。

生きる意味が見出せない。


そりゃ、金持ちになったら生きることに心配は要らないけれど。


僕は金持ちじゃない。


両親は、僕のことを愛してくれているんだと思う。

祖父母もそうだし、実母もそうだ。

ゲーム友達も、親友も僕を愛してくれているだろう。


でも、僕は誰も愛していない。


愛するということを知らないんだ。


愛されたら幸せと思う人が居るかもしれない。


でも、僕は逆だと思う。


愛せることが幸せなんだと思う。


僕はこれまで、愛されていた。

けど、愛したことはない。


だから、僕は幸せにはなれないのだ。


僕は死ぬ。


どうしたって、生きる希望が見えないのだから。


ゆえに、ここに書き残す。


僕が自殺を試みた、その理由を。


僕の人生は、誰かのためになったのかな。


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