悪夢
雑然と淀んだ湖面で、ゆらゆらと月が遊んでいました。
私は澱んだ湖でした。
私は毎夜毎夜、自分のお腹のところに映る月の姿にうっとりしていました。
ある夜はシュッと細身で、
ある夜はカツンと欠けていて、
ある夜はそれはもう見事に真ん丸で、
一転、ある夜は姿を見せてもくれなくて。
昼間、毎日ふんぞり返ったような態度で私のお腹をジリジリギラギラと焦がしていくあの情趣のない太陽とかいう奴とは比べものにならないくらい、月の君は魅力的でした。
私はいつだって、忌々しい橙色の空がやがて淀みのない一面の紺に染められて、月がやってくるのを今か今かと待ち遠しく思っているのです。
ある夜半のことでした。
その夜は身体の半分がごっそり割れてしまったような、これまた趣のある月を眺めていたところ、突然その月が、ぽつんと私のお腹に雫を降らせたのです。
私は何事かと目をぱちくりして驚きましたが、そうしているうちにまた一粒、雫は私の腕を叩きました。
私が初めてのできごとに戸惑っているあいだに、雫は塊になって、塊は線になって、すぐに雨になりました。
夜のいっそう冷たい雨粒が、容赦なく私の身体を打ちます。
けれど、私はおかしいと思いました。
雲なんてどこにもないのです。
美しい月を隠す奥ゆかしい夜の雲など、どこにもないのです。
雨が続くにつれ、私にはおや、と思うことがありました。
私のお腹一面、雫の当たったところが、きらきらと小さな光を湛えているのです。
私は何事かと驚いて、不意に夜空を見上げました。私はそぼ降る雨粒の向こう側に、月があるのを見つけました。
そこで、私はもう一度、今度は声を上げて驚きました。
月が、欠けていたのです。
はじめは片側だけごっそり穴の空いたような形だったのが、今ではもう、満月の四半分くらいになってしまっていました。
よくよく見てみると、私のお腹へ降り注いでいるのは、そしてお腹の上で光っているのは、月の欠片のようでした。
月から降り注ぐ月の雫が、私のお腹を叩いて輝かせているのです。
私はどうしたのかと、ついに話しかけました。
いっそ叫ぶといったほうが近いくらいに、お空に浮かぶ月へ、話しかけました。
すると、月が応えてくれました。
「やあ、湖くん。
久しぶりですね。お身体変わりないですか」
月は四半分になった身体で、微笑んでそう言いました。
「はい、元気です。少し前に人間が、海の向こうの魚を私の肝のほうへ流していきましたが、なんともありませんでした」
そうですか、それはよかった、と月はまた微笑みました。
それから、こう話を続けました。
「私はもう長くありません。
私が夜の王を終えてしまうまでに、私の持っている世界のすべてを、あなたに伝えようと思います」
私は戸惑いました。
私は呆然と、なぜ私にそんなことをしてくださるのかと、月に問いました。
月は穏やかな声で答えました。
「あなたは私を素敵だと言ってくれましたね。
あなたは私が夜空を東から西へ駆けるのを、ずっと眺めてくれていましたね。
私にはそれが、とても嬉しかったのです。
私も昔、前の月から月を受け継ぎました。
私が月になったはじめの頃は、やれ光り過ぎだの、出る時間が遅いだの、何かにつけて文句を言う人もたくさんいました。
けれど私は、私たちの歴史を途絶えさせないために、私が月であることを誇りに思い、またそれが使命だと思って、気が遠くなるほどの長い時間月であり続けました。
けれど私も、もう長くありません。
だから私は、私のすべてをあなたへ贈ります。
私の輝きを、翳りを、素敵だと言ってくれたあなたへ」
私はそこで、ようやっと自分の言葉で、今も身体を星屑に変えて私へ注ぐ月に、訊ねました。
「すると、これからは私が月になるということですか?
あなたが亡くなったあと、あなたの代わりに夜空へ浮かび、あなたのように美しく輝き続けるのですか?」
私の期待と不安が混じり合った質問に、けれど月は、いいえ、と首を横に振りました。
「あなたが私になる必要はありません。
あなたはあなたでいいんです。
私があなたに願うのは、私がこれまでに経た喜びや、悲しみや、苦しみや、愛したものを、知っておいてほしいと──それだけです。
決して、無理に私になろうなんて愚かなことを考えてはいけません。
あなたが憧れている私にも、やはり不当なところがありました」
月がそう言ったところで、私のお腹のうえに、膨大な光の雫に交じって一筋の黒ずんだ雫が落ちてきました。
それは光に均されてすぐに見えなくなりましたが、私にはそれが、とても大切なものであるように思えました。
「あなたは、あなたのままでいいんです。
そのままで、思うように輝けばいいんですよ」
最後にそう言い残して、月は、夜空に浮かぶ月は、身体の全部を余さず私に降り注いでしまって、すっかり見えなくなってしまったのです。
それから、月が夜空に浮かぶことはありませんでした。
私は湖です。
決して月ではありません。
人間たちは私を「月輪湖」と呼びますけれど、月ではありません。
私は湖です。




