廉潔
ある昼下がりのカフェでのこと。
「そういや、昔から大事にしてたイルカの形のロケット、最近はしてないんだな」
二人して小腹に旨い珈琲を注いでいたところ、急にそいつはそんなことを言ってきた。
「ああ、そうだな。最近はしてないな」
会話の間にカップに口をつけながら、俺とそいつは午後の日向を、何だかんだで楽しんでいたように思う。
「で、何でしてないんだ? もしかして、なくしたとか?」
遠慮なしに、そいつが訊いてきた。
もちろん、それ自体は不快ではない。俺とこいつは、遠慮も容赦もないこういう関係でないと始まらない。
けれど、
「いいや。そういう理由ではないんだけど」
俺はいつもの通り、ばつが悪そうに茶を濁す。
「なんだよ、気になるじゃないか」
「そう、言われてもなあ」
こいつに隠し立てすることがあるわけではない。いや、実はあるのだけれど。
ただ、この胸の内に巣食う何らかを、こいつに説明すべきかどうか分からないのだ。
そんなことを言い合っているうちに、店員がちょっとした料理を二人分運んできた。
* * * * *
粗方料理を平らげたところで、俺はそいつに、再度訊いてみた。
「なあったら。あのロケットはどうしたんだよ」
「どうしてそんなに気になるんだ」
「昨日までは、気づいてもなかったけど。でも隠されたら、余計に気になるもんだよ」
すると、そいつは三度ばつの悪そうな顔を見せて、何を思ったのか、自分の平らげた皿に残っていた蜜を指先に塗ると、
「そら」
ぺとり、とそいつの冷たい指先が俺の鼻の頭にくっついた。
「うわ、何をするんだ」
「俺はいま、おまえの鼻の頭にハチミツをつけた。甘くてとろっとした、おいしいハチミツだ」
そいつは続けてこう言った。
「どう思う?」
「おまえに文句を言ってやりたいね」
俺が言い返すと、次にそいつは、
「なら、おまえの鼻の頭に乗っかっているのがハチミツでなく、屁泥だったらどうする。汚くて、臭くて、くっついて取れない沼底の屁泥だったら、どうする?」
「もしそうなら、おまえをぶん殴ってやるよ」
ふん、と俺は鼻を鳴らしてみせた。
そいつは一言、そうか、とだけ返した。それから、
「じゃあ、もしもその屁泥がおまえの鼻先だけじゃなく、顔も、腕も、胸も脚も陰部も背中も……身体全体に、洗っても洗っても成果ないくらいにこびりついていたら、おまえはどうする?」
俺は、質問の意図がよく分からなかった。
「嫌だよ。俺は毎日、シャワーを浴びて、清潔な服を着て、髪型を整えて家を出るんだ。なのに、身体じゅうが臭い屁泥塗れなんてのはあんまりだ」
「そうだろうよ」
最後に、カップの底に僅か残った珈琲の残滓を啜りながら、そいつはこう言った。
「俺だって、下らない思い出は大事だ。あのイルカのロケットは、俺の机の引き出しで寝ているよ」
「そうか」
俺は得心したが、それしか言葉は見つからなかった。
悔し紛れに飲み干した珈琲が、思いの外うまかったのが癪に障った。




