勇者と戦斧
「やめよ、ライア!」
怒りとも焦りとも判別できないような声をハルバァが上げる中、鋼の塊がリツトへ向かって振るわれる。
風切り音を立てるそれは、斧と呼んでしまうには随分とリーチが長かった。先端部分に鋭い穂先のついた長柄の斧。それは槍と斧がくっついたようなものであり、用途も突き、払い、斬り、叩き潰すなどなど様々な用途に使うことができる。
ライアは長柄のものを片手で引き抜いては、一歩を踏み込む。リツトが両手を広げるよりも長い戦斧は、穂先の重みに水平からやや下方へ下がる。
老人や子どもたちから怯えの声が上がったが、武器を振るう彼女は止まらない。
「オラアアアァ!」
高くも凛々しい声を上げ、ライアは獲物に左手も添える。踏み込みと両手持ち、勢いと膂力が十分に乗った斧は、弧を描いてリツトへと肉薄した。
『――ハルバード、だったかな?』
接近する武器を眺めながら、少年はその名称を検索していた。それ程武器に詳しいわけでもなかったが、ゲームの中で出てきた武器によく似ている。だが、ゲームでは斬撃の効果しか表現されないため、実際にどう運用されるのかはまったくの初見。
どのような軌道を描くか、単純に興味があったと言っていい。リツトが一歩も動かなかった理由の一つは好奇心からだった。
「……お前、バカか。避けないと死ぬだろ?」
薄く鍛えられた鋼は、少年の肌に触れる前に止められた。訝しがるように出た声へ、リツトは何となく笑顔を返していた。
『何で動かなかったんだろう……上手い説明の言葉が浮かばない』
睨むライアを前に、苦笑いを浮かべるしかなかった。動かなかったもう一つの理由は、相手からリツトを傷つける“色”が浮かばなかったからだ。ただ、これは説明にならない。何となく動かなくていいと思った程度のもので、実際に当たっていたら冒険が始まる前にゲームオーバーだ。
――おおリツトよ、呼び出されてすぐに死んでしまうとは情けない。
そんな台詞を幻視しながら、笑顔を取り繕っていた。しかし、目の前の人物が冷淡な眼差しを向けていることから、冷や汗が背中を伝うのを止めらない。
依然、相手から敵意のような色は伺えない――が、何とも表情が読みづらい。
髪と同じく赤い瞳は切れ長で、彼女の持つ槍の穂先を思わせる。前髪こそ少々癖っ毛であったが、首元でざっくりと切られた髪は艶やかだ。他の村人が細かい刺繍の入った浴衣のようであるのに対し、ライアの装いは無骨。
時代劇の袴のようにゆったりとした履物と、上半身は忍者の装束のように身軽なもので、袖というものはない。遊びを廃して動きやすさを重視したような、そんな格好だった。
それが、彼女の年齢――リツトよりも幾つか年上だが、ハルバァよりも遥かに若い――に似合っている。
「むぅ」
つい、リツトは唸ってしまった。
言葉遣いから男ではないかと思われたが、目の前にいる人物は間違いなく女性だ――それも相当に綺麗な――抜き身の刀身のような美しさとでも言おうか。飾り気はないが、その鋭さは語るまでもなく見るものを圧倒する。神に奉納する刃のようでもあった。
『と、まじまじと見ては失礼じゃないか』
いつしか苦笑いは消えていたが、ずいぶんと長く相手を見つめてしまっていたことにも気付く。相手の瞳がより一層険しいものになるのではないかとすら予感したが、溜め息が一つ吐かれれば、その考えは霧散していった。
「いや……バカはオレか」
ライアは斧をたたみながら、やれやれと首を振っている。その姿はまったく毒気が削がれたように、リツトの眼に映っていた。
『嫉妬と羨望、かなりきつい感情を味わったと思ったんだけどねぇ……』
ライアは勇者とやらを見つめながら、溜め息を吐いた。
自分という戦士がいながら、勇者などという存在が呼び出されることで一つ。呼び出されたそいつがチビスケであることで一つ。 物は試しと愛用の武器を振るったが、身じろぎすらしないであしらわれたことでまた一つ。
リツトに向けたものは、八つ当たりみたいなものだった。そのことは十分に自覚しているし、世界の守り神が呼び出した勇者を傷つける気などは元よりない。
『腕前はともかく、この状況で笑顔を作られたんだ。器では完全にオレの負けか』
癪なことには変わりないが、心で呟いては呑み込んだ。戦う意思のない相手を、まして自分よりも小さな生き物を力でどうこうしようなど、恥の上塗りでしかない。ハルバァが鬼の形相をしているのを視界の端で捉えたが、それは敢えて無視を決め込む。
「ふむ、このチビが勇者か……」
切り替えるために、ライアは一言述べて少年を観察した。普段から鋭い、悪い、怖いなどと言われている瞳が一層鋭くなっていることは自覚していたが、今更止めない。
新聞配達をしていたリツトは上下黒のジャージを着て袖まくりをしている。彼の母親が近所のスーパーで買ってきた安物で、そこには飾りっ気も何もない。黒い髪は長くもなく短くもない。背丈は少年の域のものであるし、顔もまだ男と呼ぶには幾分も幼い。つまりは、どこにでもいそうな少年だった。
『しっかし、異世界の勇者ってのは面妖な出で立ちをしているのだな。神器でも身にまとっているのか?』
少年の身に纏われたものが、彼女が持つ戦斧のように神器であるのではないか、と一瞬逡巡してみせた。
「えーっと、ライアさん?」
視線を向けられていることに、勇者は何となくいたたまれなくなっていた。魔法を使ったときとはまた別種の奇異な目が刺さる。
リツトの住む世界では至って普通であっても、ここは異世界だ。黒ずくめの姿は異様に映る。村の外には黒装束の暗殺集団がいると聞いたことがあるが、はてと首を捻る。幼さが目立つ少年――女だと言われても信じてしまうだろう――からは神を殺せるような雰囲気は感じ取れない。
「ライアさーん……」
視線を投げかけられるだけ投げかけられるまま。幾分かの間が空いたが、言葉はない。困ったようにリツトは言葉を発していた。その瞳は困惑こそしているものの、特になにもかわらない。
『確かに、変わっている。だが、この瞳は――』
尚もライアは黙ったまま、ずずいと身を寄せる。ただ、その少年の瞳が綺麗だと思えば、自然と身体が引き寄せられていた。それ程に、リツトの瞳の輝きは彼女を魅了していた。
「えっと、あの、何です?」
困惑顔を浮かべて、リツトは再度言葉を紡いだ。顔が触れるか触れないか、その程度の距離にまで近づけられたものの、未だ相手からは攻撃の色は見られない。にもかかわらず、少年勇者は身震いをしていた。
まったくもって未知の体験だ。頬を上気させた女性が己に迫る――そんな状況は今の今までリツトは知らないかった。
身体は傷つけられない。だが、精神的な部分で、少年では居られなくなる程いたぶられる――何が起こるかはわからないが、直感的にそんな気がしていた。
「――っ!?」
言葉にならない声を吐く。そうこうしている内に肩が掴まれていた。それだけで、女性に免疫のないリツトは頭を真っ白になってしまう。若干のパニックが混ざっていたとも言える。
異世界に召喚されて、状況の理解もままならない間に、斧を向けてきた相手が、今や近すぎる距離にいる。妙齢の女性に狭まれて、困りはすれど悪い気をする男がいるだろうか?
否――いない。
だが、真面目すぎるくらいのリツトは身をよじってその場から逃げようと若干の抵抗を試みていた。
「うん、いいよな」
『なにがっ!?』
言葉にはせず、リツトは条件反射的に背を逸らしていた。本人も気づかない内に、捉えられたまま、エビ反りに身はしなる。エビ反り選手権なるものがあれば、世界でも五本の指に入ろうかという反らし具合だ。
迫る相手は、全力で振るった斧をぴたりと止める程の力の持ち主――か細いリツト少年ではそれを止めることは能わず。より一層迫るそれに、ついには諦めたように目を閉じた。
『嗚呼……』
何とはわからずも、少年は悲鳴とも諦めた声を胸中で溢した。
「ん?」
色んなものを失うかと思っていた少年は、疑問の声を上げた。次いで、耳をつくような声に眉を若干顰める。
「――痛っっっった!!」
叫びに対して、リツトは目をぱちくりと瞬きを二三度くり返した。既に脅威は去っていた。見れば、斧を持って迫った女性は頭を抱えてその場にうずくまっている。
「こーの、罰当たりがーーーーー!」
裂帛の気合一線。
リツトの顔に迫られた位置には、木槌のような杖が置かれていた。
「ライア、お前は勇者に挑んだのみならず、その少年に何をしようというのか!」
ぷんすか、そんな擬音が相応しい形相でハルバァは振るった杖を手前へ戻していく。
頭を打たれたライアは、ガニ股で屈んだまま、涙目を浮かべ、同時に抗議の声を上げてその老婆を睨んだ。
「勇者の度胸を試そうとしたんだよ! うっせぇな、このババァは……」
後半の音は口が開ききらず、もごもごと音が呑み込まれていた。その様を見ながら、リツトは地面に腰を下ろす。我知らず、ふっはぁぁ、と息が漏れた。一先ずは、貞操の危機は去ったらしい。
「あ、いや、全然大丈夫、です。ですので、ライアさんを殴るのはやめてください」
「ん、そうかの? もうちぃっとはお灸を据えてやらねばならんかとは思うが……リット殿がそう言うならばな」
今にも舌打ちをしそうな、物足りない顔でハルバァは木の杖を引いた。小さなおばあさんであるが、村の長を務めるだけあって実力はあるようだ。戦斧を威勢良く振るった女性は、目に雫を浮かべてうずくまっているのをリツトは見送った。
「エホン――」
咳払いが一つ。
これまでの戯れを割くようにそれは村長から放たれた。
「リット殿、この村を見てどう思いなさった?」
「……え、あぁ、大人が少ないと思いました」
先程までの戯れからの落差を感じつつも、リツトは率直な感想を口にしていた。ぐるりと視線を回せば、集まった村人の顔が目に入る。だが、それらの八割方は老人と子ども。
リツトのように、これから成長すべき少年は見られない。また、ライアのように成長の余地を残しつつも更新の育成に力を注ぐ世代も見られない。
――つまりは、次世代の担い手がこの村にはいなかった。
「そのとおり。この村は危機に貧しているのです。否――世界そのものが、といった方が正しいですかな」
ハルバァはリツトを正面に見据えて、淡々と語っていた。
「……それを何とかするために、ボクは呼ばれたのか」
会話の中にあって、リツトは独りごちていた。文明の点で言えば、リツトの暮らしていた世界の方が遥かに利便性は高い。だが、この世界には、常識外に身を置くリツトでも理解の出来ないことが多い。
それを知ってか知らずか、傍らの妙齢の女性が動き出す。
「ま、オレがいれば大丈夫さ。リッ――勇者殿くらい守ってやるよ。例えば、だ――」
ライアは豪快に笑う。だが、その挙動の中にリツトと出会った当初の慢心はない。それとは別の警戒が眉に浮かんでいる。
「この世に襲い来るものがいたとしても、だ」
それだけを残して、ライアは勇者に背を向け走った。
「ハルバァ……一体?」
きょとんと言う音が似つかわしい表情で、それをリツトは見送っていた。会話の途中で突然と走り出す様は、上手く表現出来ない。だが、それを見ていた老人たちの瞳は真剣そのものだった。
「勇者殿。これが、この世界の現状。隠しておった神器使いのライアを出さねばならぬのですよ」
来る、とハルバァは言った。
その視線の先――見えなくなったライアが向かった先では、村人の悲鳴が轟いていた。