勇者を呼ぶ声
構えた剣を握る拳が震える。
その拳に込められた力よりも大きく、心臓がドクンと跳ねた。これから起こることに、不謹慎ながら心臓が跳ね上がることを止められない。
「ふぅ……」
小さな勇者は、心の動きを押さえつけるように息を吐いていた。実際には、息をするだけでも精神は摩耗していく。それ程の窮地に立たされていた。
頼みの綱は、最早己の身体のみ。
であるというのに、心が躍るのは何故か?
「行こう――」
誰に向けるでもなく小さく呟き、少年は駆け出した。呟いたのは、己の弱さを埋めるためだ。
眼前に迎えるは、表現もし難い巨悪。だが、これを倒すために彼はこれまで旅をしてきた。弱い自分であっても、みなに支えられてここまで来れた。
ならば、退くわけにはいかない。ここに立つまでに力をくれた人たちが、確かにいたのだから。
「おおおぉぉぉおおおおお!!!」
これまでに出したことのない大声を上げて勇者――リツトは突き進んだ。
「ふあぁ……」
大口を開けながら、リツトは自転車をかっとばしていた。
まだ朝日が差し込み始めたばかりの時刻。街の中であっても、未だ彼以外に動くものはいない。
リンリン――欠伸をした際に触れたベルが鳴る。だが、リツトはさしてそれには気も留めることはなく、これまでと同じくペダルを踏む足に力を込めた。
早朝の街中を、一人疾走する。
「さっさと帰って、昨日のゲームの続きをしよう」
誰もいないこととは知っていたが、ついつい言葉が漏れる。苦学生――もとい。新聞奨学生をしている彼は、さっさと配達を終えてゲームの続きをしようと決意していた。
これまで一生懸命にアルバイトを続けていたことが実り、ゲームの一つが母親から買い与えられていた。勇者と魔王が戦うシンプルかつレトロなゲームであるが、これが何とも面白い。
ゲームをするにもそれなりの初期投資が必要であったため、興味はあれど“ゲームが欲しい”とは一言も口にしてこなかった。
だから、初めて手にしたそれは古臭いものであっても、彼が熱中するには十分だった。何せ、大切にしていると日頃から言って憚らない妹を差し置いても、続きが気になって仕方のないものなのだ。
「んでも……勇者って魔王を倒したら、どうなるんだろうな?」
エンディングを前に、ふと疑問が過ぎった。言葉にするようなものでもなかったが、誰もいないことから、不意にそんな疑問が口をついていた。
ゲームの展開に熱中して忘れてはいるが、勇者の目的は魔王を倒すことではない。魔王にさらわれたお姫様を助けることだ。だが、魔王に永らく攫われていたお姫様が人里に戻ってきたところで、そこに幸せはあるのだろうか。
争いのない少ない世界に住むリツトですら、日々の世界の変化に戸惑うことが多い。否、彼が変わっていないだけで、世界はくるくると回り続けているのかもしれない。ふっとしたことでも世界が変わっていることに戸惑ってしまう。
ならば、と思う。
そう。お姫様を置いて、世界は回り続けている――
「あー、そう考えるとクリアしなくてもいいかもな……」
年齢不相応にゲームに入れ込んでしまっているのかもしれない。そんな空想を繰り広げていたが、あるところで思考は中断された。
「あ――」
気づけば、お気に入りの場所に辿り着いていた。
考えている間に、自転車は坂道を登り切る。誰もが通る道ながらも、この時間帯の景色は彼だけのものだった。人が住んでいることは確かだが、この光景を見るものは少ないだろう。
坂道の頂上で、リツトは声を失ったままその景色を見つめていた。
登る太陽がもたらす光――それは、自転車をこいで幾度もみた光景であるが――は、彼の心を今も掴んで離さない。ここ最近熱を上げていたゲームの内容すら忘れていた。
「んー……」
一番高い坂道を登りきったことを確認して、癖の一つである伸びをする。一日はまだ始まったばかりであるが、誰もいない場所で一人活動していることは、何とも得をした気分にさせてくれる。
「さって、行こうか」
伸びのために組んだ手を下ろし、肩をぐるりと回しながら呟いた。頂上に達した時点で、新聞は配り終えている。後は自宅に帰るだけだ。
『――けて』
「え?」
ペダルを踏み込もうかとしたところで、リツトは辺りを伺った。
勘違いにしては随分とはっきりとした声だった――はっきりとは言ったが、耳に届いたものではない。それでも脳にこびりつく程綺麗な声だ。それはまるで、囚われの姫のような綺麗でありながら儚い声だった。
「あちゃー……ボクって、そんなにゲーム好きだったのか」
むむぅ、と唸りながら自転車のハンドルを握り直す。寝ぼけいていたのかもしれないと、気合を入れ直しての行為だ。ここからは自宅に戻るまでの間、急な坂道が続いている。ぼんやりしたままでは事故を起こしかねない。
「よし、いくぞっ!」
自分に言い聞かせながら、ペダルを一漕ぎ。次第にスピードは上がり、リツトの短い黒髪が風になで上げられた。
もう少しで家だ。学校に向かう前に、クリアは出来ずともいいところまでは進められる――そう思っていたところ。
『助けて』
綺麗な呼び声に、身がふわりと浮かぶ感覚を味わった。
「え?」
妙な声を上げながらも、どこか安心感は損なわれない。
瞳に飛び込む効果は、ゲームで村から村へと転移するそれにそっくりだった。