第1話 新たな人生の始まり
唐突で、それでいてずっとあったような心地良い微睡みから目が覚める。
体をうーんっと伸ばそうとして――最初にまともに動けない事に気付いた。
あれ? なんだ? と、言おうとして――気の抜けたような高い声で「あぁぃぅぃー」みたいな、訳わからない言葉しか喋れないことに気付いた。
見たことのないような部屋でのことだった。
…………は?
いや、まてまてまてまて。ちょっと冷静になろう。
動けない、喋れないってことは俺は拘束されているんだろうか?
しかしそれにしては体の何処にも痛みを感じず、それどころか安らぎすらある。
目に映る部屋の感じも、温かみのある陽射しを取り入れた部屋のようだ。とても牢屋のようなおどろおどろしさは感じられない。
とりあえず部屋の中を眼球を必死になって動かして観察することにする。
まずは、今俺は木の柵があるようなベッドで寝ている。
部屋はなかなか広く、白い天井に木で出来た壁。
周囲には中世のヨーロッパを感じさせるような、趣ある家具達。
その他見覚えの無いよくわからない道具。
そして、ぷにぷにした節のあるおてて。自分の意識と連動している所を見ると俺の手らしい。ははっ、まるで赤ちゃんみたいだな。
というか赤ちゃんだった。
…………俺は何か夢でも見ているのだろうか?
しかし、こんなはっきりした夢があるのだろうか?
手足の感覚はまともに動かせないながら問題ないし、呼吸、視界、嗅覚、聴覚、かなりはっきりしている。
……これは、赤ちゃんとしてもおかしいような気がするが。視覚とか赤ちゃんの頃は鈍いというし。
思考すること数十秒、否定と肯定の末に何とか思い当たる可能性を導きだす。
あれか、前に読んだ事のある小説にあった、転生的なものか。前世の記憶を持ったまま生まれ変わるっていう、ミステリーとかで使われてる話の。
うんうんなるほど、そう考えるとこの状況も納得だな。
…………いやいやいやいやいや、ちょっと待て。
そもそも前提からしておかしい。
俺は死んだ覚えはないぞ?
生きていた頃(この場合は前世?)の事はちゃんと思い出せる。
朝からブラックな会社に電車で通勤し、それからパワハラを受けながら仕事を残業までしっかりこなし、最後にベッドで眠った所までしっかり覚えている。
なのになぜ、赤ちゃんになってる?
これなら転生と言うより、怪しげな組織の取引を目撃してしまって、不可思議な薬を飲まされて退行した、という方が説得力がある気がする。
しかし、解けない謎はない、真実はいつも一つであると某探偵の人も言っていたし、わからない事があるならばそれは真実ではないかもしれない。
謎を上げるとするなら、今思うと恐らく魂? のようなものがたくさんあった空間は夢ではなかったのか? という疑問が。
いや、そもそもなぜ俺はアレを魂だと思ってる?
しかしアレを魂だとすれば、つまりこれは転生だと。
ヤバイ混乱してきた。
何か現状をきちんと把握する方法はないだろうか?
というか誰か来てくれないと自分じゃ首を動かすことすら難しいし、とりあえず誰か呼んでみて、情報を入手しよう。
多少恥ずかしいが背に腹は変えられない。
赤ちゃんにおける究極の奥技。
「すぅ……っびぇぇぇぇぇ!!!」
バタンッ
「jisabehwatesraesullo!?」
瞬時に木製の扉が開き、凄い勢いでベビーベットの上からその人物はこちらを覗き込んでくる。
予想通り、誰か来てくれたようでよかった。
ゆっくりと壊れ物を扱うかのように抱き抱えられながら、その来てくれた女性を見つめる。
その女性は見たこともないほど透き通るような白い肌に、輝く銀髪と、同じく綺麗で優しげな印象を持たせる銀の瞳をもった超絶美女だった。
思わず息をするのを忘れてしまうほどの綺麗さと可愛さを携えて、こちらに微笑んでくる。
全体像は見えないが、似合わない無骨な黒の首輪に、シンプルな白いドレスのような服を着ていて、もはや神々しいとさえ思えるほどの美しさであった。
「Huahuahuah、hehqibhup」
いや、何言ってるか分からん。
少なくとも、俺が知ってる言語では無さそうだった。とりあえず、目下の目標は、言葉を覚えるところからになりそうだ。
俺はその女性にあやされながら、この唐突な事態で最善策を模索するのであった。
しばらくして、心も落ち着いてきた。
さっきの女性はいまだに話しかけて来ながらあやしてくれていて、そのお陰もあってか、乱れていた心がよく落ち着いている。
訳が分からないことになってしまったが、もう前の生活にはしばらく、もしくは一生戻れないかもしれない。
これが本当に転生ならば、これからこの体で一生、生きていくことになるだろう。
しかし、ふと思い返せばあんな人生に未練もないし、しっかりこの命を生きていくことにしたほうがよさそうだ。
もし、この体でまた生きられるなら、今度の人生は、周りに利用されないように、しっかりと、自由に生きていこう。
俺は慈愛の目を向けてくる女の人に抱っこされながら、今生の生き方を誓うのであった。
あ、そういえば、赤ちゃんといえば母乳とおしめ……。
精神的に詰んだ。
………………
…………
……
転生してから一年がたった。
やはり夢なんて事はなく、赤ちゃんとして一年を過ごさなければならなかった。
この一年がとにかく辛かった。
おしめを代表とする羞恥はもちろんの事、産まれてからすぐであろうこの体では、無茶苦茶不便で途方にくれた。
最初の頃は首でさえ自由に動かす事が出来ず、極限的な不自由さを思い知らされた。
赤ちゃんは泣くのが仕事というが、用も無く泣くのは迷惑になると思い遠慮をしたため、さらにやることが無くなった。
唯一の救いは、常に眠いため、一日が早く過ぎる事か。
「あら、テラスちゃん、おはよう♪」
いつものようにベビーベッドの上で目覚めた所、自分の母親である銀髪銀目の美しく麗しい女性、フィレオル母さんが上から覗き込んできた。
「おぁよぅ!」
まだはっきりと喋ることは出来ないが、この一年で簡単な日常会話程度は修得出来た。
母さんが喋る言葉と、たまに子守唄代わりに読んでくれる絵本の童話で、少しずつ学んでいったのである。
この体がかなり優秀なのか、はたまた赤ちゃんだからかは分からないが、特に苦もなく修得出来たのは、正直助かった所である。
他にもこの体が優秀なのでは? と思う理由に、体の発達もある。
一歳児になったぐらいの体にも関わらず、ちょっとした駆け足も出来るようになったのだ。
それに明らかに一歳児にしては滑舌がいいし、産まれたばかりの頃は、視力が弱い筈なのに、ちゃんと見えていた。
ようするに、普通の赤ちゃんよりも五感が発達していて、体の成長もかなり早いようだ。
「よしよし、今日は何して遊ぼっか?」
そう優しく問いかける母に対して、この頃いつも返してる言葉を返す。
「ほんをよんぇ!」
「あらあら、テラスは本当に本が好きね♪」
そうやって上機嫌に母は返事をした。
会話は出来るようになったが、文字はまだまだ修得出来ていない。
最初のうちは、座った体勢になるのすら難しい状態だったから、単純に文字を見れるようになってからまだそう時間が経ってないのが理由の一つである。
今の目標は文字を覚えることだ。
「でも、まずはご飯ね!」
「ん!」
そう言ってからベビーベットから抱えられ、食事をするための椅子に座らせられる。
このあと幼児用の食事をとり、少しの休憩後、絵本を読んでもらうことになっているのだ。
さて、言葉を修得し、懸命な情報収集により、今まででわかったことがそこそこある。
まずは、ここは外国どころか、異世界のようだ。
根拠は魔法が普通に存在し、聞いたことのない国や物ばかりだということ。
初めて知ったときは、それはそれはもう嬉しかった。
魔法が使えるかもしれないというのは、それだけでワクワクしてしまうことなのである。
次に、母の名前は”フィレオル”というそうで、自分の名前は”テラス”であるということ。
どうやらかなり偉い立場の父の子であるらしいのだが、その父とは一度も会ったことがない。
そして、母は何となくだけど父親を嫌ってるっぽい空気がある。
侍女のような者もいるんだが、余り会わないし、表情から義務感しか感じないためいい印象もない。
ついでに言うと、俺はベビーベッドがある自室と、トイレ風呂など以外、外に出るのは禁止されている。
体の動かせない暇な時に気づいた事だが、魔力? と思われるものが、俺の腹のちょっと下辺りに感じることが出来た。
やることが無かったのでとりあえず動かせないかやってみたら、そんなに苦労することも無く動かすことが出来てしまった。
今では身体中をスムーズに動かせるようになっていて、現在も常時高速循環させている。
自分の魂のようなものも、意識すれば視ることが出来たが、しかしこれには一切干渉出来なかった。
少々怖いのは、やはり異世界の定番、魔物がいるということか。
魔物には魔石というものがあり、それによって様々な道具が動いているようだ。電池みたいな物かな?
似たもので魔獣というのもいて、違いはなに?と母に聞いたら、魔物は魔石があって、魔獣にはないそうだ。
魔獣と獣の違いは強さと人を積極的に襲うか、という曖昧なものらしい。
幻獣、聖獣などもいるとか。
あと、楽しみなのは、この世界にはエルフや獣人など様々な種族があるらしい。
他にも、最初の時よくわからないと言っていた道具が魔道具だったり、童話の中で興味深い話があったりしたが、今はまだ割愛しておく。
一番驚いたのは、ステータスやレベル、スキルという概念があることか。
特殊な魔道具がなければこの世界の住人は見れないようだが、俺は自分が持つスキルで見ることが出来てしまった。
だが、脳内に表示されたステータスの中でよくわからない項目があったので、さりげなく母から聞き出す、もしくは文字を覚えて部屋にある大きな本棚からの情報入手が一つの目標である。
大体こんなところで、これ以上は文字を覚えて絵本じゃない本を読めるようになる必要があるだろう。
さて、今日も一日、人生のスタートダッシュの為に頑張りましょうか!