熱砂のつり革
男が軽快な足取りで砂丘を上っていく。
砂漠の深い砂に足も取られず両手を振って大股で跳ねるように、ダークスーツをきちっと着込んだ男が砂丘を上る。首元には一ミリたりとも曲がっていないネクタイ。
その顔は汗こそかいているが涼しげで、あたりの砂漠に漂う死の影など微塵も寄せ付けないかのようだ。
砂漠は見渡す限り続き、砂の他に見えるものはといえば、あとは真っ青な、雲一つ浮かんでいない空だけだった。
男は、青年と言うには歳を取っているがくたびれた中年と言うほどではなくまだまだ若々しさを残している。
彼がむやみに元気よく振り回す左の手には、ごつくて黒いアタッシュケースがある。手の振り方から見ると明らかに中身が詰まっている。
でも中身は食糧でも水でもサバイバルキットでもなく、客先へ提出する見積書とか製品カタログとか上司への報告書とか筆記具とかタブレット端末とか携帯電話とか名刺とかなのだった。
最後にひときわ大きく足を踏み出して、男は砂丘のてっぺんに立った。ぐるりと周囲を見渡す。笑顔である。そして砂丘を下り始める。次の砂丘を目指して。
男は、いくつもいくつもいくつも砂丘を上ってはまわりを見渡し空を見上げ、すぐに次の砂丘へと向かって駆けるように降りていく。
やがて夕陽が男の影を次の砂丘にまで届こうかというくらいに伸ばす。いくらもしないうちにその影も消え月が昇り星が撒かれ朝日が顔を出した。男は失望した素振りなどまるで見せず疲れも一向に感じさせない。早足で軽快に大股で両手を振りどこまでもどこまでも砂漠を歩いていく。
何度も朝と昼と夕方と夜が繰り返された。続く砂漠の終わる気配も男が疲れる気配もない。男は飲まず食わずのまま寝ることもなく歩いて行く。
そうやって幾日か何ヶ月か、もしかすると何年かが過ぎた。男のスーツには皺一つ無い。その足取りは揺るがない。
何度目かわからない日暮れ近く。
その砂丘は、ほかの砂丘に比べてとりたてて高さがあるわけでも頂上の広さがあるわけでもなかった。何かの建造物があるわけでもない。でも男はそこで立ち止まった。
男から笑顔が消える。空を見上げる。
いつの間にか残照も薄れた空から一本のつり革が下がっている。見上げても天に飲まれた先は見えない。しかし男は満足げにうなずくと、つり革に両手を掛けた。つり革はしっかりと男の体重を受け止める。左手のアタッシュケースは持ったままだ。そして男は、ゆっくりとつり革にもたれると目を閉じた。
陽は落ちた。月が昇る。
月明かりの中、男はもう微動だにしない。
男は、斜めにつり革にもたれかかっている。時折、思い出したように、乾いた夜空を星が流れる。
砂漠のどこかに、男はいる。
つり革にもたれて静かに眠っている男が。
(完)




