エピローグ
水彩画で描いたような空は手の届かない高いところに広がっている。自然豊かな大地には草木が生い茂り、透明な湖は憩いの場として多くの者に愛されていた。肥えた大地からは農作物が手に入れられ、温暖な気候のおかげで飢饉を経験することもなかった。
まんまるの太陽は生きとし生けるものに活力を与え、暗闇に浮かぶ月は穏やかな時間を提供した。
人々も精霊も安らぎの世界に受け入れられ、コルグレスの恵みを手に入れられたのだ。
もう無駄な戦いが繰り広げられることはなかった。変化といえば人間が魔法を使えるようになったことだが、移住民は魔法とは無関係な土地を選び健やかに生活している。まったりと動く時間は悲しい事件を思い出させることもなく、戦争で家族を失った者の傷も癒されようとしていた。
「ありがとう、リンネ。最後までお世話になった」
人気のない丘でそう紅葉は感謝を述べた。精神的な成長を遂げたのか、外見もやや成熟し、全てを虜にしてしまいそうな紅の髪は着物の長さと同じくらいにまで伸びた。長いまつ毛には常に強い意志が乗っており、己を主張していた。
「我のエゴだ。気にするでない」
リンネはぶっきらぼうに言うものの、視線を斜めに上げていて照れたように目をそらした。リンネがそれ以上言わないようであるから、後ろからひょこっとフレイが顔を出す。
「紅葉さんはこれからどうするの? 恩恵の呪文を発動できるのはこの世界でもごくひと握りの精霊だけ。君はどこにいてもそれなりの待遇をされると思うよ」
「嫌だな。あたしはお客様のようにもてなされるのは好きじゃない」
「そう? もったいない」
「……フレイ。そんなこと毛頭思ってないくせに口だけは達者だな」
「千年近くは生きてるからね。……君はだいぶ眠っていただろうから数十年ぐらいしか体感していないだろうけど、期待しすぎるのは疲れるし本気になるよりは飄々(ひょうひょう)と世渡りをしていくほうが楽なんだ。思っていないことも言葉にできる。……これもまた長命の罪なのかもしれない」
寂しそうに語るフレイは最後の冠を頭に載せている。"最後"という使命が一体どれほど彼の背中に背負われていたのだろう。傍らで黙り込むリンネにも深い過去があるようで、この二人が並んでいると胸が締め付けられる思いがする。
「仲間が汝を探しておるぞ。顔を見せに行かなくてもいいのか?」
「うん。あたしは一人で旅に出るつもりだ」
リンネの問いに紅葉はそう答え、重い腰を持ち上げる。座っていた岩の表面はあまりにもゴツゴツとしていたので尻が痛くなっていた。
「じゃあな、リンネ、フレイ」
「……また」
「次に出会ったときにはぜひ思い出話を聞かせてよ」
紅葉は微笑み、手を振った。行く先は特別決めていなかったが、精霊としての勘が行くべき場所を告げてくれるだろう。紅の炎に導かれ、紅葉はゆっくりと足を動かす。この大地を踏みしめる感覚は精霊であっても感じられる。風が紅の髪をなびかせ、ふと紅葉は振り返った。しばらくじっと果てしなく続く大地を見つめ、再び歩き始めた。
大精霊の空間が崩壊して現実に戻ると、そこにはもうリンネとフレイの姿はなかった。精霊剣も役目を終えたからか刀身が真っ二つに割れていた。しかし颯瑪やラグリを困惑させたのはリーダーである紅葉の不在であった。
それほどの時間は経たずに世界はコルグレスの大地に迎えられた。最初こそ不安を抱く者が多かったが、精霊という特別な力を持った存在のおかげですぐに平穏な生活を送れるようになったという。
颯瑪・ラグリ・エミルの三人は英雄として人間に受け入れられた。ただしエミルはこんな持ち上げられる生活なんて似合わない、と土人形らとともに放浪の旅に出たという。
颯瑪とラグリはネーセルとともに生活の基盤を完成させていった。子供に冒険の話を尋ねられると、二人は笑顔で語り聞かせたという。紅の剣のような少女の戦記を――。