49.剣の名は紅
精霊剣を手にし、紅葉と大精霊はいがみ合う。前者は水を打ったような静かな面持ちで、後者はそんな剣で何ができるのかと小馬鹿にしながら。
紅葉というパーティの要が復活し、士気が上がり始める。エミルだけは紅葉がいようがいまいがあまり態度を変えなかったが、風と水の恩恵を受け口角を上げた。紅葉がいない間防御に回っていた颯瑪は剣を握り直して風の殺傷度を高めている。ラグリは唇を噛み締めながら防御式を組み立てていく。
そんな立ち直った四人をフレイとリンネはまるで語り部になるかのように戦いを目に焼き付けた。
「リンネ……君はまだ、レセルカノンを探す旅に出るの……?」
「無論だ」
「……もうやめてよ。彼らに肩入れしたのだって、贖罪のつもりなんでしょう? 僕にはわかる。僕は君が生まれた頃から知っている。テンさんやウイージュさんの願いも、誰よりも僕が知っているんだ」
フレイが悲痛そうな顔で語りかけるも、リンネは顔色一つ変えやしない。二人は外野であり直接物事には参加していなかった。しかし二人がいなければ紅葉らがこうして大精霊の前に立つことはなかったかもしれない。二人とも――いや、リンネは世界を動かす歯車だ。金色の髪と橙の瞳は太陽のように燦々(さんさん)と輝き、周囲に活力を分け与えている。だが歯車も手入れをしなければ錆び付いてしまう。先程のフレイの発言も、リンネの"錆"を思ったゆえだった。
「見ろ、フレイ。恩恵の呪文だ」
リンネはそう言って視線を上げた。つられてフレイも上を見上げる。ぽつぽつと雨が降り始めていた。雨は味方を祝福し、逆に敵には残酷な凶器と成り代わる。味方には回復という癒しを。敵には冷雨という牙を。冷たい雨は体力をじわじわと削り、やがて気力さえも奪っていく。
「私は水の子。降りなさい、雨よ。罪も過去も洗い流してあげましょう。私は人が好きです。どんなに虐げられても、彼らの心は美しい。ああ、なのにどうして我々には隷属という歴史があるのでしょう。それは人間が自分と違う存在を怖がったから。魔法を扱い天変地異さえも起こしてしまう我々を怖がったから。……仕方のないことだったのです。私だって逆の立場であったらそうしました。私は人を愛します。もう争わないで。人間同士で争わないで」
数ヶ月前ラグリはワタリの広場で冷たい雨を降らせた。抑えきれない感情で発動された禁術は不安定であり、味方であるはずの颯瑪や契約者であるはずのネーセルさえも苦しめた。
恩恵の呪文・セルリアンブルーはラグリの制御下にあり、永続魔法として起動する。
「ラグリ! そのままお前は後方支援を頼む! 万籟とエミルはあたしに続け!」
「了解」
「偉そうに言うねぇ。まあやってやるよ」
先陣を紅葉が切る。紅の炎は雨に邪魔されずに対象を焼き尽くす。大精霊に捕まらないようちょこまかと動いて前線をかき乱し、精霊剣で己の力を増幅させた魔法を発動する。と同時に颯瑪が動いて突風が吹き始める。風は紅葉の炎をまとい、大精霊を巻き込んだ。
「むう……! 余はまだ、負けておらぬわ!」
大精霊は風を裂き、新たに詠唱を始める。降りしきる雨で立っている体力ももうないだろうというのに戦意を失わないとは。数秒もしないうちに生まれた光線は上空から広範囲へと向けられている。
「ボクの手番かな」
余裕のある顔つきでエミルは片腕を空へと伸ばした。手中へと集まっていた土の粒子は光線の光源を包み込み、塊の中に封じてしまった。
「……終わりだ、大精霊」
勝利を確信し、紅葉は精霊剣を構える。渦巻く炎、輝く剣身。まるで紅剣が二人いるかのようだった。
「アセスノフィア如きが! 余に敵うなどあるはずがない! 余は勝利しか知らぬ! 余を屈服させ排除しようとしたコルグレスなど知らぬのだ!」
突如大精霊の体が光を放ち始めた。純白であるのに狂気をはらみ、見ている者を不安にさせる光は大精霊の体から溢れ、内側から崩壊させた。精霊の体は人間とは違い粒子で構成されている。大精霊の体は例に漏れず空っぽであったのだが、黒い塊が残った。
「恩恵の呪文……!」
リンネの叫びは各々の危機感を震わせた。恩恵の呪文。愛や希望など己の感情を吐露することによって奇跡へと変わる法則。紅葉の紅の剣は戦意をかたどったものであり、ラグリのセルリアンブルーは人間の愛を謳ったものだ。ゆえに恩恵の呪文は悪の感情では発動しないと誰もが思っていた。
黒い塊はだんだんと大きくなり、紅葉らよりも数十倍の体積を持つほど膨れ上がっていた。すでに正常な思考は持ち合わせていないのか、塊は地面を這いずりこの作られた世界から出ていこうとする。
「あれを外に出したらまずいぞ!」
ぞわりと肌が粟立ち、反射的に紅葉は炎弾を黒い塊に向かって放っていた。ただ大きさ的に黒い塊の方がとてつもなく大きいため、その黒い皮膚を焼き尽くすには何十発も炎弾を放っても足りない。殺戮の雨だって何時間も降っていなければ無駄だろう。それまで自分らが立っていられるのか。
「人の世界も精霊の世界も、みんなみんな平等で、私は全てを愛したい――」
ラグリの透き通った歌声が雨足を強くする。敵を大幅に弱体させることはできなくても、この恩恵の呪文は生の感情で動かされていく。
「リンネ! あれは一体……!」
「言っただろう、恩恵の呪文だ」
「あれはどう見たって悪意の塊だ! あれのどこが"恩恵"なんだ!」
紅葉がリンネに詰め寄っても、恩恵の呪文だということ以外説明されなかった。颯瑪の風の刃は黒い塊の四肢を切り崩すには弱く、内側まで到達されていない。エミルの土の矛でどうにか傷を与えることができていた。
雨がざあざあと降り注ぐ。その中で立ちそびえる敵はまるで巨人のようだった。ここが人間の住む世界だったならばいくつもの都市が破壊されてしまっただろう。また数え切れないほどの人命が失われていったに違いない。
戦場を濡らす雨は地面に這いつくばって生きる存在を知らず、無情にも降り止まない。
目眩でふらつきそうになっても、紅葉は堪えた。胸に宿る戦いの火は消えていない。何度だって立ち向かおう。まなじりを決した紅葉からは一種の覇気が漏れていた。
「エグス=ラティア=グランドール。汝はなぜ戦う。なぜこの世界の理から外れようとする」
リンネは紅葉を真正面から見据えた。身長は紅葉の方が高いというのに、リンネの方が尊大に見えるのはどうしてか。高圧的な態度にむっとしながらも、こいつは出会った当初からそうであったと紅葉は自分の思いの丈をぶつける。
「この世界の理が間違っているからだ! たとえ原理であろうと掟であろうと、間違っているものは正さなくてはいけない!」
「……! 原理が間違っている、か。なかなか面白いことを言う」
小さく目元を緩ませ、リンネは笑っていた。橙色の瞳は太陽のような温かさを体現し、金色の髪は他と一線を画し、己の存在感を主張していた。
「刮目せよ、幼き同胞――」
ふぅと息を吐き、リンネは恩恵の呪文を紡ぐ。
「母なる太陽は我に使命を賜った。リンネ・プリンシプル。真名を与えられし体は不死となり、己だけが残される。愛しき人は亡くなった。自ら命を放棄し、我が前から消滅した。ああ太陽よ、これもまた世界の仕組みだと仰るのか。御名を宿した体は痛みを知らず、心のみが悲鳴を上げる。我が使命を、何故我に与えなさったのか」
空気の震えは一帯に広がり、リンネの凛とした声が戦場を変える。戦女神と謳われたラティアもこうして多くの兵を率いていたのだろうか。リンネには有無を言わせずに空気を変える力を持っている。存在感に発言力。どちらも兼ね添えた一人の精霊は、将として胸を張る姿が似つかわしい。
だというのに言葉から伝わってきたのは深い悲しみであった。真名を持って生まれたということや精霊として生まれたことが何かしら悲劇と結びついたのかもしれない。
「しかし、我は悲しまぬ。太陽から受け継いだ力と記憶を献上し、歯車となって世界を動かすことを誓う。我はリンネ。太陽のリンネ。エレメンタルサンを名乗りし迷い羊。我が存在の証明は激動するこの世界にあり――!」
心情の吐露と同時に周囲が照り日と化した。雨粒は蒸発し、乾いた太陽の日差しが下界に存在する者へと突き刺さる。空中に浮かび上がる七色の線は対象を補足し、数百本もの光線が放たれた。
「うごぉぉぉぉぉぉぉ!」
光線は黒い塊の固い皮膚を射抜き、各組織をバラバラにさせ蜂の巣にさせる。体のパーツをごとりと落として黒い塊はその場にうずくまった。
恩恵の呪文の威力は術者の思いに比例する。リンネの思いは大精霊の生への執着を打ち砕き、敵の無力化に成功させた。まだ精霊としてのプライドもなく下っ端である颯瑪以外は、太陽の名を冠するリンネの力量を見せつけられ、劣等感を感じたのは言うまでもない。
「決着は汝らがつけろ」
涼しい顔でリンネは後退する。あれほど強い思いを魔法に変えてぶつけたというのに、己の感情を仮面の下に再び隠してしまう。いつかリンネの苦しみを理解できる日が来るのだろうか。そう思いながらも紅葉は精霊剣を掲げた。
リンネの恩恵の呪文・サンデュラインで大損害を受けた敵は弱々しい呼吸を繰り返す。微かに聞こえる言葉は「生きたい」という気持ちを込めたものであり、同情をかけてしまいそうになるが、この黒い塊を壊すということが本当の意味で大精霊を倒するということになる。
「あたしはお前がこんな世界を構築した理由なんて知らない。人間は同族争いを強いられ、大切な人や思いを失っていく。幾度の戦いの歴史で独自に発展した文化もあるだろう。誰かと誰かが結ばれたこともあったかもしれない。だがな、精霊は人間の営みに深く関わってはいけないんだ。共存はあるとしても、我々のせいで血を流させてはいけない。ありのままの世界に戻そう。コルグレスなんて奴のことなんてあんまり知らないが、リンネとフレイを見る限り、不憫な世界ではないようなんだ。……わかってくれとは言わない。これはあたしの偽善、戦うという意志。食らえ、大精霊。これが自分の意志で戦うということだ」
深紅の炎が打ち上がる。紅葉の髪も瞳も普段よりも深い紅と化していた。儚げな表情の中に毅然とした炎を宿し、精霊剣へと手を伸ばす。紅葉の思いに応え、精霊剣は形を変えた。より鋭さを増した形は他人を傷つけるという目的に特化し、細い全身は持ち主の機敏な心を表している。
「紅葉」
背後から近付き、颯瑪が紅葉を抱きしめた。いきなり抱きしめられ紅葉は両頬をほんのりと赤く染めたが、颯瑪のしようとしている行動を理解し敵へと視線を戻す。
ひと振りの剣に紅葉と颯瑪は手を添える。剣を通して伝わってきた相棒の心がどことなく力強い。
「さあ、世界をあるべき姿に――」
なだめるかのように優しく、紅の剣は黒い塊を貫いた。