17.国へ
登場人物に名前の読み方を記載したため、ルビをふる頻度を減らします。
がたごとがたごと。
馬車が揺れる。
足場が悪いところを通ると、車体が上下に動き左右に傾く。体重の軽い猫は何かの衝撃で飛び跳ねそうだったので、ネーセルの腕に包まれていた。
馬車は、紅剣が乗ったことのあるものではなかった。人が立てる高さであるそれは、小奇麗な内装である。そうでなければ長時間乗っていることはできなかったかもしれない。
早朝に彼らは出発した。猫を置いていこうとしたけれども、猫自身がついてきたのだ。その愛らしさで過保護になったものが数名。興味がないのも数名いた。といっても完全無視を決め込んだのは颯瑪ぐらいだ。彼は興味がないらしく、まるで最初からいないような扱いをする。
「……はぁ」
「王子様お疲れですかぁ? サヤカが膝枕しちゃいますよん」
「…………寒くなってきたな」
颯瑪は遠くに目を向けていた。木々の葉が色を変えていく様をぼんやりと眺める。これからだんだん寒さが厳しくなっていくだろう、と上着の裾をつかんだ。
「しゃあああああああああああああ」
ネーセルの腕に包まれていた猫が総毛立ち、激しく鳴く。暴れる猫を止めようとしたネーセルは、やれやれと大きく溜息をついた。
猫はサヤカを威嚇していた。サヤカは怯える前に颯瑪にしがみつき、目を潤ませる。
「きゃっ、こわ~い。王子様助けて~」
「この猫、人見知りが激しいんだろうさ。猫ちゃーん、ほらマタタビだよ~」
「にゃあ」
マタタビにつられて幸せそうに鳴く猫。
隣にいたラグリはハンカチを歯で引っ張り、今にも号泣しそうだった。いや、すでに頬を濡らしている。
「ネーセル様、私も構ってください。構って構って~」
「……ひどい様だな。騒がしいぞ、皆の衆」
体育座りをしている紅剣は呆れた声で言った。膝丈もない着物なので中が見えそうだが、そんなこと紅剣は気にかけない。足を組ませたら様になるだろう。そんなところが独特の色気をもつ紅剣の魅力なのかもしれない。
「ネーセル、これからお前の工房に帰るんだよな? なんだこのザマは。反吐が出るぞ」
「僕もそう思います、ネーセルさん」
「……万籟はわかっているのか。流石あたしの契約者」
欲しい言葉を得られ、紅剣は薄く笑う。眉尻が少し下がった。逆に口角は上がっている。
ネーセルは紅剣と颯瑪の顔を見比べた。終始穏やかであるのに隙のない二人を見て、そういうことかと納得する。
「……二人は以心天心なんだねぇ。流石、歴戦の王者さ」
「褒める暇があるなら警戒しろ。お荷物が一人いるんだぞ」
「お荷物ってサヤカのこと!? 違うもん!」
紅剣が言い放った一言に、溜まったものを一気に吐き出すかのような勢いでサヤカが食いついた。
目を細め、紅剣は足を広げる。鷹揚に構え、どこか余裕がうかがえる。
「ふっ……自覚はあるようだな。そうだ、お前のことだサヤカ。お前に何ができる? 自分の身一つ守れない貧弱者が親の庇護から出ようとするなんて失笑ものだぞ」
「りょ、料理とか洗濯ならできるもん。サヤカはお荷物じゃないっ!」
「甲高い声を出すな。耳障りだ」
「……あ、嫉妬しているんでしょ、ちんちくりん。サヤカの方が女らしい体型だもの。そんな幼児体型を、誰が愛してくれるのぉ?」
「…………っ」
勝った、とばかりにサヤカは心の中でガッツポーズをした。そして颯瑪に流し目を向ける。彼に気付いてもらえなかったことにやや傷ついたが、それよりも紅剣を言い負かしたという気持ちが勝っていたようで、今にも鼻唄を歌いそうな顔で紅剣に視線を戻した。
「あらら~? サヤカに強く言うくせに、言い返せないの?」
「驕るのはやめてください、サヤカさん。あなたの発言は我々への侮辱に値します。撤回するならば今です。二回目は許しません」
「な、なによぉ。ホントのことを言っただけですよぉ? サヤカはおかしいこと一つも言っていないもの」
「いい加減にしてください!」
乾いた音が響く。
サヤカは現実を受け入れるのに時間がかかった。目の前にはラグリの形相。じんわりとする左頬を触り、叩かれたのだとわかる。
「戦はなくてもよい、という喜びを感じたことはありますか? そのような綺麗な衣装を着て、一人で街に出られる平和を喜んだことはないんですか!?」
叫ぶように気持ちを吐き出すラグリは拳を強く握った。叩いたばかりの右手は震えている。それでもサヤカから目を離さない。歯を食いしばりながらサヤカを凝視していた。
「ラグリっ――」
「言わないでください、ネーセル様。私は人間ではありません。それだけのことですから」
「はっ、あたしとラグリの意見が同じとはな。そうだ、あたしらは人間ではない。ゆえにサヤカの杞憂は無意味だ。安心しろ、人間に手を出す趣味はない」
「あらあら、下世話なことを」
「お前こそ、知らない間に変化を遂げたようだな」
「再会までに気の長い時が流れましたから」
お互いの考えを理解するように紅剣とラグリは深く頷いた。
サヤカだけが現状を理解できずにわめき散らす。
「ちょちょっと、サヤカがわからない話しないでよぉ。どう見ても人間じゃないですかぁ」
叩かれたことよりも、疑問の方が優先らしい。
* * *
「…………来る。風が教えてくれている」
「しゃああああああ」
小さく呟き、颯瑪は臨戦態勢をとった。腰を持ち上げ、とっさの対応ができるようにする。
毛づくろいしていた猫も何かを察したようで、斜め上を見上げた。激しく鳴いた後、ゴロゴロ喉を鳴らし始める。
「ツェード、馬車を止めてよ」
「……! ういっす」
ツェードが馬車を止めようとする。馬車は突然止まるわけではなく、徐々にスピードを落としている。完全に止まるまで緊迫とした雰囲気だった。何が起きそうなのか、颯瑪だけが知っている。猫も何かを察したようだが、人語を話せないため伝えられない。
(……臭う。人間の姿を解く必要があるな)
「あたしが奇襲をかける。ラグリは守りながら戦ってくれ」
「紅剣さんも感じますか?」
「お前もか」
鼻をひくつかせた後、紅剣は人の姿を放棄した。普段よりも色の濃い緋色が自ら燃焼していく。
「ひっ」
呻き声を上げ、サヤカは後ずさった。人間が炎へと姿を変えたのだ。驚いても無理はない。発狂しないだけでましだ。
「……颯瑪くんと紅剣は外に行ってほしい。全体の指揮は私がとる。なあにラグリが変幻自在に動いてくれるさ。全力で迎え撃とうじゃないか」
「え、なによ……こんなの、こわいよぉ……向こうから何か来るだけなんでしょ……」
「ラグリ」
「はい、ネーセル様」
ラグリは慌てふためくサヤカの背後に一気に回り込んだ。体固定させるために片腕をサヤカの腹部にまわし、彼女の首元に遠慮なく手刀を振り下ろした。
「うっ……」
体を丸めるようにして倒れたサヤカ。
彼女のもとのツェードは駆けつけ、一枚毛布をかける。
(平和しか知らない人間に見せるには酷な光景だからな。……あたしも行くか)
一足先に颯瑪が馬車から飛び降りる。その後を紅剣は追った。
耳を澄ますと、前方から音が聞こえてくる。
(よく万籟は、この距離でわかったものだな。人間の嗅覚も聴覚も発達しすぎているのではないか?)
足音は乱れており、統率のある軍隊ではなさそうだ。だとしらたら一体何なのだろう、と紅剣は息を呑む。戦場で幾度も聞いた音とは明らかに何かが違う。
(衝突するつもりか……!?)
減速を知らない。むしろ加速しているように感じる。
紅剣は空高く飛んだ。何度目かになる地上を俯瞰する形で目標を補足する。
こちらを狙っていない、という可能性は一割を満たない。そう本能が告げていた。このタイミングで近付いてくる大群を用意するのには時間がかかるはずなのだ。
用意周到な奴か、と紅剣は不敵に笑う。
「我が前に立ったことを後悔しろ! 焼かれるのが嫌なら道を開けろ!」
空への咆哮。
己に喝を入れるためにしたそれは、予想外のものを引きつけた。
呼応するかのように、意外と近くから何かが鳴いた。
ざわつく木々の向こう側から、それは一直線に飛んでくる。
「そこかッ!」
反射的に紅剣は"それ"を燃やした。
丸焦げになったそれはプスプスと音を立てながら落下していく。
見届けていた紅剣は異変に気付いた。
火の玉が空中で光を放ったのだ。
(光るだと!?)
度肝を抜かれた紅剣は、一瞬思考停止に陥った。何もできずに呆然と光を放つ火の玉を見つめる。息をする暇もなく、火の玉は周囲を巻き込むようにして――爆発した。
紅剣に飛んできたものは鳥だった。内側から破裂し、爛れた肉塊が地上に落ちていく。元々が生きた動物だったため、鼻腔をくすぐる臭い食欲をそそるものである。しかし、爆発したという現象を見せつけられ、そんなことを考える暇もない。
「気をつけろ! これから来る奴らは爆弾が仕掛けられているぞ!」
空気を震わす声は、下にいた颯瑪達のもとに届いた。