15.猫
紅剣とラグリは長い回廊を抜けようとしていた。
湧き上がる力の衝動に屈してしまった二人は己の能力を使役して道を切り開いた。火と水の共演は美しく、目にした者を虜にする。爆発も水彩も芸術の一つだ。前者はあらゆる形を壊し、後者は淡い色を生み出す。室内だというのに虹がかかり、何も知らない者にとっては幻想的な世界が広がっていた。
「あははははははは……!」
狂ったように口角を上げて笑う紅剣。白目が見えるほど大きく目を開き、声が枯れそうになるまで思いっきり叫ぶ。獣のように咆哮する紅剣に立ち向かう者はおらず、また紅剣自身も止まろうとしない。
建物に損傷がないのは二人に残った最後の慈悲かもしれない。そうでなければ、ここまで火の化身が暴れまわったというのに壁や木材に火が移らないのは奇跡以外になんと表現すればよいのだろう。
紅剣の数歩後ろにいたラグリが顔色を変えた。紅剣のはやる気持ちに歯止めをかけようと、普段よりも大きな声を放つ。
「"フィンネルの紅剣"さん、そろそろ逃げましょう」
「断る! わたしを幽閉した罪を贖わせるんだッ! まだ終わらせない」
「……ラグリ2から報告がありました。迎えに来てくれたようです」
「迎えに? 誰が、あたしを? あたしの居場所はフィンネルの隣だけ。フィンネルがいてくれればいいんだ。ねぇフィンネル。どうしてあたしを置いて行ったの。一人にさせないって言ってくれたじゃない……」
「言葉では通じませんか」
水の力が収束して数本の帯びとなる。それらは紅剣に向かって一斉に伸びたが、火にあてられ蒸発していった。
紅剣はふふんと鼻を鳴らし、ラグリを挑発する。赤い瞳はどんよりと濁り、機嫌を悪くしたのか噛んで吐き出すように言う。
「その程度であたしを止められるのか? ラグリ」
「……うっ、どうすれば……」
ラグリの顔がひきつる。言葉はかすれ、爆音にうもれる。ラグリ2に力のある程度を分け与えているため、全力で止めにかかっても紅剣に勝てる可能性は無きに等しい。拳で訴えかけても、火が紅剣を守ろうとするだろう。よって本人の心に直接訴えかけるしか方法はない。
紅剣が盲信している存在はここにいない。いるわけがない。いたら紅剣がこうして無駄な寄り道をせずに、愛しき存在へと真っ直ぐ向かうだろう。
「なんだ?」
紅剣の火が突然威力を弱めた。主の制御下に入ったようで、火は予測不可能な動きをやめる。
虎視眈々と紅剣を止める機会を伺っていたラグリは水の力を使おうとするも、なぜか紅剣を襲えない。いくら命じても水が動こうとはしない。
銀色のベールが虚空から現れた。
術、それも同族の香りであることを本能で悟った二人は足を止める。
優しい光が天より降り注ぐ。その光は全てを包み込んだ。紅剣の火とラグリの水をとりこむと、銀色の閃光の中から黒い煙が吹き出した。一瞬だけ二人の視界を奪った煙は、だんだん晴れていく。
「――フィンネル?」
紅剣がおもむろに手を伸ばした。
「フィンネ、ル?」
『久しぶりだね、クレハ』
いつからそこにいたのだろう。金髪と緑色の目をした人物が微笑んでいた。足元には薄い靄がかかっていてよく見えない。上半身を固めるのは傷ついた鎧であり、腕を覆うアームカバーは体型を隠すかのようだ。こっちにおいで、と口を動かし、奥へと消える。
「…………っ、ここにフィンネルさんがいるなんておかしいです。急に現れるなんて人間の技では――」
「フィンネルがいたんだ! あたしは追うっ」
「あれがフィンネルさんだと言える証拠はどこにあるんですか!?」
「あたしをクレハと呼ぶのはフィンネルだけだ!」
「そんなことで決めつけるなんて……!」
「そんなこと? 違う。大事なことなんだ。フィンネルとあたしの繋がりなんだ」
『テオ=ラグリ=ハーデンス。君も来なさい』
空から降ってきた声は第三者のものだった。
「私も……ですか」
『君の契約者がいるところまで案内します』
* * *
招かれるようにして、二人はとある一室の前に立った。それと同時に金髪の人物から煙が吹き出し、姿を変えた。
紅剣は諦めずにフィンネルの姿を探している。一方、ラグリは煙の中から黒猫が現れるところまでしっかりと目に焼き付けていた。
「猫……?」
猫は扉をすり抜け、部屋の中へと入っていく。ラグリも続いて扉を開けた。
「マスター! 助けに来てくれたんですか!?」
ラグリがネーセルに前のめりに抱きついた。
それほど体型の変わらないラグリに潰されまいとネーセルはふんばる。
「ラグリ2がここまで案内してくれたのでね。ツェードが馬車を出してくれたのさ。この場所がわかるまで時間がかかってしまったが、無事そうで安心したよ」
「……随分タイミングが良いものだな。ついさっき、あたしとラグリを閉じ込めていた術式が破られたんだ。おかげで力を自由に使える」
紅剣の背後が一瞬赤く光り、ぼんやりとした炎が空中にふよふよ漂っている。
「ところでネーセル。金髪の人間がやってこなかったか?」
「いいや、来ていないな。お、猫ちゃんだ。にゃーにゃーこっちにおいで」
ネーセルの言葉を理解したのか、黒猫はネーセルに近付き彼女の足に頬を擦り付ける。慣れた手つきでネーセルは黒猫をすくい、自身の顔の前まで持ち上げた。そして顔を覗き込む。
「ん? この猫、変わった目をしているね。……銀色?」
「にゃっ」
猫はネーセルの手からするりと抜けて着地した。ひっかかれたり猫パンチされないだけでマシだとネーセルは胸をなでおろし、また猫の観察に戻る。
「まるで知性があるような猫だね。尻尾を踏んだらどう反応してくれるかな」
「ネ、ネーセル様。私の前で他の生物をいじめるなどやめてください。いじめるならどうか私を!」
「ラグリ、そういうことを言うな。誤解されるだろう。ほーら猫ちゃーん。にゃあにゃあ」
小首をかしげながら猫もにゃあにゃあ鳴いた。かわいいな、とネーセルは猫にかまう。そのやりとりを見て頬をふくらませるラグリ。紅剣は会話に加わらずに、物憂げな表情で明後日の方向を見ていた。
「シャアーっ」
声とは裏腹に、悠然とした様子で猫は紅剣に近付いた。ピンと立ったままブラブラと尻尾が揺れている。
「ん? なんだお前」
銀色と赤色の視線がかち合う。
不貞腐れた態度で紅剣は片足に重心をかけるようにして立っていた。
猫はこれ以上鳴くこともなく、じっと紅剣を見つめていた。前足で顔を洗ったあと、猫は勢いよく跳んだ。
「いたっ。猫の分際で……!」
紅剣は猫にひっかかれた。手の甲についた傷は表皮を裂いている。血はにじまないものの、皮膚の下にある人間とは違うものがちらついている。
理由もなく傷つけられた紅剣は怒り心頭に達していた。今にも噛み付かんとするような鋭い眼差しで猫を睨みつけるが、猫も逆に見つめ返した。
「……っ」
無言の圧力に押され紅剣は押し黙る。深い知性を感じさせる銀色の瞳は嘲笑っているようだ、と紅剣は思い背筋を震わせる。
『一族の名を汚すな、"フィンネルの紅剣"』
頭に直接響いてきた声は紛れもなく猫のものであった。




