12.しかく
光の届かない場所で生きてきた。
不衛生な環境下で多くのものがひきつめあっていた。
代わりなんていくらでもいる。
どうせ自分は使い捨てなんだ。
手を止めたら檄が飛んでくる。稀に責任者が直々に来る事もある。手を止めても止めなくても暴行されることもある。
何の脈略も無く手首をつかまれ、頭を押さえつけられた。手を止められるのは、こういう時だけだ。
地面に頬がついた。
ついた、なんて生易しいものでもなかった。
跳ね返せないほどの強い力で押さえつけられ、頭を踏まれた。耳も踏まれた。
足でぐりぐりと動かされたら、自身の頭も無条件に動く。
堅い地面の上に頬や鼻が何度も打ちつけられ、つぶされそうになる。
これが日常。
脱獄を企てたものはすぐにいなくなる。新しいものと取り替えられる。
必要なのは手と口。それしかいらないならば、自分達である必要は無かったのではないか。
必要の無いものは奪われる。あるいは使い方を忘れていく。
自由を奪うための足枷。
思考を奪うための薬。
視覚を奪うための目潰し。
目が見えなくなっても、何をしなくてはならないのかは体が理解していた。
手も口も己の意思など無関係に動く。
だったら中途半端な心なんていらなかった。
同じ境遇のものと意思疎通する手段なんてない。声が聞こえなくなったら、いなくなったんだと思うくらい。
話し続けるので、いつから声を発している場所がわからなくなった。何を言っているのか考えるのもやめた。
でも耳は聞こえていた。たまに誰かがおしゃべりしているんだ。
仲間のものではない。聴こえてくる言葉が何を意味しているのかわからない。だけどそんな彼らから知識を得るのもたやすかった。
蹴られている体の部位。言う、聞く、わかるなどの言葉。
気の長くなるような時間を待って、こうして考えられるようになった。
もしかしたら自分は記憶力が優れているのかもしれない。
聴覚が残されているのは幸せなことだったんだね。
ありがとう、神様。
何もかもいつも通りだった。
手で書いて口で唱えるという作業。
自分が一体何であるかわからないまま、取り替えられるまで作業をしなくてはならない。
いつまで続くのだろう。永遠に続くのなら早く終わりにしてほしかった。
長年聞き続けていた声はどんどんなくなっていく。
早く自分も新しいものとかわらないかな。
またいくつかが新しいものに代わって、ついに自分にも異変が起きた。
誰かが自分にも語りかけてくるのだ。口は常に動いているので、話しかけても応えられない。それはこの場にいる全員同じだ。話せる人なんているはずがないのに。
――ボクだよ。君と話しているのは。
ボク? ボクってなに?
――ボクはボクだ。
ボク? ボクってなんのこと?
――ああ。君は無知で哀れな道具だったね。
あわれなどうぐ? あわれってなに? どうぐってなに?
――フフ……ボクが教えてあげる。さあ、何をするかわかっているな?
体に何かが流れてくる。さっきまで知らなかったことも、わかる。体の自由も利いている。
不思議な高揚感。敵なんていない。自分はできる。新しいものになれた。新しい存在になれた。馬鹿の一つ覚えのように手と口を動かし続ける人生なんていらない。
逃げられる。ここから出られる。
――やはり、君は適任だった。――を教える甲斐があるよ。
思考も自由も取り戻せた。考えることってなんて素晴らしく崇高なのだろう。
自分は新しくなれた。新しくなったのだから、こんなことをする必要なんてない。やっと願いがかなったんだ。
「……っ」
口から勝手に出ていく言葉が止まった。思考を取り戻せた証だ。次に何を言うかは自分で考えなくてはならない。
「……あたら……しく、なれた……の」
手が止まった。
奪われてものを取り戻していく。空っぽだった部分が埋まっていく。
余計な言葉が入ってしまったためか、周囲の雰囲気が変わった。
ゆっくりと目蓋を持ち上げる。黒一つではない世界を見るのはどれくらいぶりだろう。
自身の手の中には何も無い。目の前には空に浮かんだ幾千幾万の呪詛。
こんなの崩れてしまえ。
ここにいるものは自分以外盲目だ。肌で感じていたとしても何が起きているのかわかっていない。
複雑に組まれた術式は未来永劫動いていくだろう。
そのために自分がいた。この術式を動かすためだけに自分がいた。
「つくり、かえていい……? いいよね? ……うん、やる」
指で描くよりも言葉の力を借りたほうが早い。
こわれた、こわした。
うばわれた、うばった。
与えられた、与えた。
術式は作りかえられた。その術式が何を意味するか知る者はおらず、どこかで高笑いが聞こえたような気がした。
「……あ」
力の流れの変化を肌で感じた。
今までの術式は術者が捧げた言葉と文字を取り入れていた。吸って、術式を維持する力に変えていた。
新しい術式はどうだろう。吸うのではなく周囲に力を吐き出している。
これなら手も口も必要ない。
よって自分達の必要性は失われた。
もう全て忘れてしまえ。
手と口を動かし続けようとする見えない拘束力も失われた。
詳しいことは知らないが、術式を維持するために自分達がいたのだ。その役目を失った以上、生きている価値も無い。
ほら、見てごらん。
誰も手と口を動かしていない。役目を失ったことで絶望にうちしがれている。
ほとんどのものが何かしたいという欲求を持っていなかった。
彼らが壊れていくのは時間の問題だ。
自分はどうしようか。新しいものになった自分は何をすればいいのだろう。新しくなったから、手と口を動かす必要なんて無い。だったらどうしよう。
そういえば――。
「……新しくなったら……どうすればいいのか、知らないや」
これが本当に新しくなるということなのだろうか。
他の人達は取り替えられたのだ。声が違っていた。新しいものになったはずなんだ。
「あたらしい……?」
本人が新しく生まれ変わるのだろうか。
「違う……違うっ!?」
廃棄されたんだ。
自分が望んでいた『新しいもの』って一体なんだろう。
新しいものになるっていうことは、こんな記憶を持っていることなのだろうか。
きっと違う。
外に連れていかれたものは逃がされるのではなく処分される。
だって自分達の代わりなんているのだもの。
いらなくなったら処分する。そして部品を再利用すればいい。
「全く、知識があるのも困ったものだ。君以外に己の存在に疑問を抱いたものはいなかったよ」
背後から聞こえてくる声は、新しくなる前に聞こえてきたものと同じだった。
怖い。怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
自分の五感が奪われてしまいそうだった。
恐怖にとりつかれ、自分は無力でちっぽけな存在に成り下がる。
何もできない。
なぜこんなことを思っているのか自分でもわからない。
「クク……どうして何もできないのか知りたいって言いたそうな顔をしているね」
「じ、じぶん……は……」
「怖がるな。君はボクの一部だ」
「い、ち、ぶ……?」
「よって君に権利などない」
腰から崩れ落ちた。
怖い怖い怖い……。見ないで。話さないで。こっちに来ないで。
いつの間にか声の主が自分の目の前にいた。
「君が怯えるのは、ボクに戻るのを拒んでいるからだよ。なぜかな? 君はボクから産まれたんだよ?」
歯ががちがちと鳴る。
この場から逃げようと思っても、足が上手く動かない。腰を浮かした直後に転んでしまう。
「逃がさない」
同じ場所にいた絶望にうちしがれた仲間が砂のように風に誘われて消えた。
何も残っていない。さっきまでそこにいたというのに、いたという形跡が無い。
「君はあの術式を壊すという任務を果たしてくれた。だから……可愛がってあげるよ」
「可愛がるって……どう、やっ……て」
見たものを凍らせるような表情。これが……笑顔なのだろうか。
知らない、わからない。考えたくもない。
せっかく新しくなれたのに、なぜこんな目にあわなくてはならないのだろう。
「思考を望んだのは君だろう? 考えるのを放棄するな」
こんなことになるなら自由も思考もいらなかった。一生己の存在を問うことなく、壊れるまで作業していたほうが良かった。
「ゆめゆめ忘れるな。君はボクから逃げられない。……操り人形のように」
「嫌だっ! 自分は新しくなってここから出て行くんだ!」
「はあ……往生際が悪い子だ」
「……うわっ、嫌だっ。何をしてるんだっ」
見ると自分の体が変化していた。肌の色が変わる。手足の大きさも変化する。
「女がいいかな? 男がいいかな? ……こっちのほうが面白い」
人間。男女。性。そんな知識が頭の中に入ってくる。生々しい画像を頭の中に入れられ発狂しそうになった。
欲しい知識は言葉と世界に関する事柄だ。こんな知識なんていらない。
「君は一段階上の存在に進化した。君はまわりにいたものと全てが違う。人間のような感情を抱くんだ。人間のような外見を得て、人間の中で暮らしてもらう」
「断る! 自分は自分として生きたい。人間になるくらないなら、ありのままの自分で死にたかった!」
「口答えするな。君には権利がないって言っただろう?」
もう嫌だ。
こんなことになるくらないなら、好奇心に殺されるくらいなら、自分で自分を殺してしまえ。
12話での主な登場人物は二人です。
この二人の行動が"フィンネルの紅剣"やラグリ、その他に大きな影響を与えます。




