第3幕:ビロン館の陰謀と、雨の追放事件(一九〇六年・五月)
第3幕:ビロン館の陰謀と、雨の追放事件(一九〇六年・五月)
第一場:血のメーデー、再会のパリ
一九〇六年の五月、パリの街は狂気と硝煙の匂いに包まれていた。
労働者たちによる大規模な暴動――「メーデー」の嵐が吹き荒れ、凱旋門へと続く大通りは、赤旗を掲げた群衆と、それを阻む騎馬警察隊の衝突によって文字通りの戦場と化していた。石畳は引き剥がされ、ひっくり返された馬車から上がる黒煙が、初夏の青空を汚している。
その騒乱のなかを、私は駆けていた。オーストリア軍の機密伝書使としての任務を隠れ蓑に、外套の下に重い軍用拳銃「ラスト・ガセ」を忍ばせて。
目指すのはムードンの本邸ではない。ロダンが新たに購入を企てているという、パリ市内にある打ち捨てられた廃墟――「オテル・ビロン」だった。事前にウィーンの協力者から得た極秘情報によれば、リルケは「書類の紛失」の嫌疑をかけられ、そのビロン館の地下室に監禁されているという。
狂い咲いた真紅の薔薇が、手入れの途絶えた庭園を埋め尽くしている。
バロック様式の豪奢な館は、主を失って久しく、窓ガラスの多くが割れ、まるで巨大な幽霊屋敷のように沈黙していた。
私は錆びついた裏口の鉄門をこじ開け、館内へと潜入した。床に積もった埃の上に、新しい、しかし歪んだ足跡が残されている。それを辿り、地下へと続く石の階段を降りたとき、かすかなランプの光と、激しい咳込みが聞こえてきた。
「……先生、ライナー先生!」
「カ、カプス……? なぜ、ここに……!」
黴と湿気に満ちた地下の保管庫。そこに、大詩人リルケは倒れていた。
衣服は引き裂かれ、床の泥にまみれている。かつて美しかった彼の横顔は腫れ上がり、何より凄惨だったのは、机の上に置かれた彼の左手の指だった。ペンを握るはずの人差し指と中指が、不自然な方向へねじ曲げられ、どす黒く変色していたのだ。
だが、彼は右手にしっかりと万年筆を握り、血と混ざり合った黒いインクで、一枚の紙に狂ったように文字を書き連ねていた。それは、私への「第六通目の手紙」の原稿だった。
第二場:金庫の秘密と、カミーユの遺産
「逃げるんだ、カプス……。あの男は、私だけでなく、君の命まで奪うつもりだ……!」
リルケは血を吐くような声で囁き、震える右手で自身の上着の裏地を引き裂いた。そこから現れたのは、何十枚もの複雑な数式と、不気味な血判が押された古い羊皮紙――ロダンの鉄の金庫から盗み出した、美術史の心臓を抉り出すような不当契約書だった。
「先生、これは一体……。コード【AC2026】の本当の意味は何なのですか!」
私が問いかけると、リルケはねじ曲げられた指を庇いながら、私の軍服の胸元を掴んだ。彼の眼窩は深く落ち込み、その瞳には底なしの深淵が宿っていた。
「前作で、ポール・クローデルたちがロダンの版権を奪おうとしたのは、ほんの序の口に過ぎなかったんだ……。ロダンは、その遥か上を行っていた。彼は、本物のカミーユを精神病院に永遠に幽閉する条件として、彼女の家族と、あるいはフランス政府の闇の権力と、ある契約を結んでいた……」
リルケの呼吸が荒くなる。
「カミーユが遺したすべての造形、あるいは彼女がこれから病院の暗闇のなかで思い付くであろうすべての芸術的閃きは、永久に、無償で『オーギュスト・ロダン』の名義で発表される。そして、その不当な独占契約が法律的に完全失効し、すべての真実が歴史に開示される期日――それこそが、一億人が彼女を忘れた後の未来、一二〇年後の一九〇六年から数えた『二〇二六年』なんだ!」
二〇二六年。
その数字の持つ圧倒的な時間の重みに、私は息を呑んだ。ロダン一族は、一人の女性芸術家の血と才能を、一世紀以上にわたって吸い尽くし、世界を欺き続けるシステムを構築していたのだ。リルケが送ってきた美しい手紙の数々は、この一二〇年間の呪いを解くために、未来の読者へと宛てられた、時を超える告発の暗号だった。
「これを……君に託す。ウィーンへ持ち帰ってくれ。これが世に出れば、ロダンの神話は終わる……」
「よく喋る口だな、詩人というのは」
その時、地下室の入り口の肉厚な扉が、地響きを立てて完全にロックされた。
暗闇の向こうから、巨大な蝋燭の炎を掲げた影が、のっそりと姿を現した。
第三場:怪物の罠、地下室の銃声
オーギュスト・ロダン。
背後には、ハンマーや鉄パイプを手にしたアトリエの屈強な職人たちが、狂犬のような目で私たちを取り囲んでいた。
ロダンの白い大髭はランプの炎にぎらぎらと光り、そのエプロンについた赤土は、まるで返り血のように生々しい。彼は手にした蝋燭を台座に置くと、節くれ立った巨大な両手をパキパキと鳴らし、私たちを見下ろした。
「リルケ。お前が私の手紙を勝手に代筆し、オーストリアの若造と怪しい文通を続けていることは知っていた。だが、まさか私の金庫にまでその汚い泥の手を伸ばすとはな」
「ロダン……! あなたは芸術を侮辱している! カミーユの魂をどこまで貪れば気が済むんだ!」
リルケが叫ぶが、ロダンは微動だにせず、獣のような低い笑い声を漏らした。
「芸術だと? 芸術とは、勝者の残した肉のことだ。敗者の骨など、泥に混ぜて固めればいい。おい、若造。軍服を着ていれば、私の庭で泥棒を働いても無罪放免だとでも思ったか?」
ロダンの視線が私を射抜いた瞬間、私は躊躇わずに外套の内側から「ラスト・ガセ」軍用拳銃を引き抜いた。銃口を、怪物の分厚い胸板へと正確に向ける。
「動くな、ロダン!」私は軍隊仕込みの冷徹な声で吠えた。「私はオーストリア帝国の現役士官だ。機密伝書使としての特権を持っている。この男を連れて私は帰る。一歩でも近づけば、お前のその『神の手』に風穴を開けるぞ」
しかし、ロダンは怯むどころか、歪んだ笑みを深くした。彼は銃口を見つめながら、むしろ私に向かって一歩、足を踏み出してきたのだ。
「撃てるものなら撃ってみろ、軍人の小僧。お前が私を殺せば、フランスとオーストリアは開戦だ。お前のその一発の弾丸で、何万人の同胞が死ぬことになる? 芸術家のスキャンダル一つのために、その引き金が引けるか?」
「くっ……!」
ロダンの放つ、国家をも揺るがす圧倒的なエゴイズムの質量に、私の指先がわずかに震えた。その一瞬の隙を、職人たちは見逃さなかった。
「死ねッ!」
背後から一人の職人が鉄パイプを振り下ろしてきた。私は寸前で身をかわしたが、体勢を崩した拍子に、指が引き金を引いた。
――ドォン!!
狭い地下室に、鼓膜を破らんばかりの爆音が轟いた。放たれた弾丸はロダンを外れ、背後にあった未完成の大理石の彫像の頭部を木っ端微塵に砕いた。飛び散った白い石粉と火花が、部屋全体を真っ白な霧で覆い尽くす。
乱闘が始まった。私は拳銃の銃尻で職人の顎を叩き割ったが、多勢に無勢、別の男たちに組み伏せられ、石畳の床に顔を押し付けられた。
「書類を回収しろ!」ロダンの冷酷な命令が響く。
第四場:泥の洗礼、そして「美しい嘘」の始まり
「……させない!」
その時、叫んだのはリルケだった。
彼はねじ曲げられた指の激痛に耐えながら、床に落ちていた羊皮紙の契約書をひったくり、室内の隅で燃え盛っていた暖炉の炎の中へと、自らの身体ごと飛び込むようにして投げ入れたのだ。
「何を発狂している、リルケ!」
ロダンが激昂し、リルケを暖炉から引き剥がしたが、すでに遅かった。一二〇年間の呪いの契約書は、初夏の乾燥した火に包まれ、一瞬にして黒い灰へと姿を変えていった。
「……ハハ、ハハハ……!」
リルケは煤にまみれ、火傷を負った顔で笑っていた。
「証拠は消えたぞ、ロダン。これで君は、私を泥棒として告訴することはできない……。もし私を殺せば、このオーストリアの士官が黙っていない。君の名声は、今ここで心中するんだ……!」
ロダンは燃え尽きた灰を睨みつけ、やがて、深く息を吐き出した。彼の顔から狂気が消え、冷徹な「巨匠」の表情に戻っていた。
「……面白い。そこまでして、私の勝ち馬から降りたいか、リルケ。ならば消えろ。お前を公式に罰することはしない。だが、今日この瞬間から、お前は私の太陽を失った、ただの、干からびた虫ケラだ」
激しい雨が、館の屋根を激しく叩き始めていた。
一九〇六年五月十二日。史実において「リルケがロダンに勝手に手紙を出したとして、理不尽に解雇された日」。
ビロン館の黒い鉄門の外、濁流のような雨が流れる路上に、私たちは文字通り衣服のまま叩き落とされる。門が重々しい音を立てて閉まり、私たちはパリの冷たい泥の中に這いつくばった。
私は泥水を吐き出しながら、隣で虫の息になっているリルケの身体を抱き起こした。
「先生……申し訳ない。私のせいで、証拠を失ってしまった……。カミーユの呪いを、ロダンの罪を暴く手立てが、もう何もない……」
大雨に打たれながら、私は自分の無力さに涙を流した。しかし、リルケは私の泥まみれの手を、そのねじ曲がった指で、奇跡のような力で握り返してきた。
彼の右手のひらのなかには、ロダンの検閲をギリギリで免れた、あの手紙の最終原稿――「第六通目の手紙」が、雨に濡れないよう厳重に丸められて握られていた。
「違うよ、カプス……。戦いは、これから始まるんだ」
リルケは、雨水と血に濡れた顔で、美しく微笑んだ。
「紙の上の証拠は消えた。ならば、私たちがこれから世に送り出す『言葉』そのものを、不滅の記念碑にすればいい。カプス、君に届いた私の手紙を、いつか必ず、一冊の本にして世界に出してくれ。人々がその美しい文学を読めば読むほど、その行間に仕込まれた【AC2026】の暗号は、ロダンの罪を永遠に糾弾し続ける。世界中がこの手紙を美しいと称賛するとき、私たちは歴史の裏側で、あの怪物に勝つんだ」
大雨のパリの路上、泥の海のなかで、私たちは誓い合った。
公式の記録では、私たちは今日を限りに「生涯、一度も会わなかった無関係の二人」になる。その完璧な嘘の裏側で、名著『若き詩人への手紙』という名の、最も美しく、最も凄惨な告発状を完成させるために。
二人は、激しい雨のなか、二度と交わることのないそれぞれの孤独な道へと、歩き出し始めた。




