食塩水
単気筒エンジンの排気音が山に響き、ハンドルと車体に振動を感じながら風を受けて山道を走る。
僕はとある旅館に向かった。薄暗い山道をバイクで進むと日本風情が佇む旅館はそこにあった。
「遠路はるばるありがとうございます…」
受付をすませ、仲居の案内で長い廊下を歩き温泉の暖簾がチラリと見え部屋に到着しバイクのプロテクターや荷物を部屋の隅に置き、部屋を出た。
(先生、元気かな…?)
僕がここの旅館に来た理由、それは初恋の人に会うためだ。
(挨拶位しないと…)
その人は名医と言われた人なのだが、僕はその人の患者でどうやら最初の患者だったらしく、僕のことを覚えていてこの旅館に招待を受けた。
だが何故、名医と言われた人がこのあまり人気がない旅館に女将として転職したのか。なぜわざわざ僕を招待したのか。とても腑に落ちない。
(絶対 医者の方が儲かると思う…)
そんな事を考えて旅館の入口まで歩いていると旅館の前に一台の高級セダンが停車した。
(随分古いセドリックだな…デザイン的に一九六〇年代くらいか…)
運転手がセダンから降り、トランクから荷物を取り出す。
僕はその様子を見て女将を探し始めた。
「女将は今 外出中です…」
受付に聞いてみるとこう返され、僕は部屋に戻ろうとしたが
『では次のニュースです…』
大広間にあるローカル報道番組のアナウンサーの声が響いた。
『昨日深夜○○市で交通事故があり身元不明の二人遺体が…』
テレビは事故現場付近の映像とテロップを映し出す。
「さっき通った所だ…」
僕はぼそりと呟き、部屋に戻った。僅かな違和感を抱きながら。
しばらく、畳で横になり携帯で交通事故に関するローカルのネット記事を見ていた。
「交通事故で身元不明なんて事あるのか…?」
と何かが引っ掛かるような感覚と畳の香りが付きまとう。
(「身元不明」…交通事故で聞いたことがない…それほど酷い事故だったのか?)
旅館に向かう道中、事故の影響と見られる物はなく、パトカーが数台停車しているだけで、そこまで酷くはないはず(一応人が亡くなっているから酷い事故に変わりない)
(免許証とかなかったのかな…)
しばらく、ぼーっとして、考えてもしょうがないと考えるのをやめて着替えの準備をして温泉に向かった。
男湯の暖簾を右手で払い、ガララと脱衣所の扉を開け、靴を下駄箱に入れる。ロッカーに着替えとタオルを置いて服を脱ぎ始める。
(靴が僕だけだったから...フフッ...貸切だー)
と温泉の期待と貸切状態により少し口角が上がる。
ガララ
脱衣所の扉が開き、誰かが入ってきて貸切状態という嬉しさはすぐに消えた。
その男はセドリックの運転手だった。見た感じ白髪混ざりの中年で中肉中背で左手薬指をみると、指輪による日焼けの跡...。
するとその男は僕に気が付き、軽く頭を下げた。
「駐車場に置いてあるバイク...あれ君のかい?」
「ええ...そうですが もしかして停めちゃいけないと所に...」
「いや 違うよ...珍しいバイクだなって...」
僕等は気が合い、話しながら服を脱ぎ、温泉に向かう。僕は身体を洗い流して湯船につかった。(何故か男の名前は覚えていない)
男は政治家らしく、ここには休暇を取りリフレッシュに来たらしい。
「都会は便利で活気があるところだが 人が多くて鬱蒼としているし 政治家という職業柄色々な人が寄ってたかってくるんだ...犬の糞に群がる蠅のように...」
ここまで話し一緒に温泉につかっていると、男は目の色が変わり鰐のように僕に近づいてきた。
「君...ところで ここに来た『目的』はなんだい...?」
何か聞かれたらまずいのか男は小声で喋る。
「目的...?」
「しらを切るなよ 消したい記録...記憶でもよい...なんかあるんだろ...?」
男は突然大声で温泉内を轟かせる。
「はあ...?」
男は何か興奮している様子、いや何かに追われ怯えているかのような様子である。
男の言っていることが理解できなかったため、僕は正直に答える。
「いえ 僕はここの旅館の女将に招待されただけですよ...?」
僕がそう言うと、男は冷静になり、「すまない...少し頭を冷やすよ」と言い露天風呂の方に向かった。僕は少し温泉でゆっくりし、温泉の効用と温泉の歴史に関する看板のような物があったのでそれを読もうとしたが
妖怪...伝説...
それだけしか書いていなかった。他は何かが削り取ったように真っ白だった。
「妖怪伝説」
僕は小声でそう呟き、湯船から出て、サウナに向かった。
シャンプーのにおいが良かったなと思いながら、温泉から出て、自販機で珈琲牛乳を買って飲んでいると誰かが、僕を呼んだ。
「久しぶり 十五年ぶりかしら...大きくなったわね」
女将(初恋の人)だった。とても綺麗な着物を着て、十五年前、僕が病気で入院していた頃と全然変わっていない。いや、不気味なほど変わっていない。年を取るというのを「忘れ」ているかのように。背中にゾワリと嫌な何かを感じる。
「えっと 久しぶりです...あの どうして旅館に...?」
緊張で裏声になりながら、気になったことを聞いた。
すると、少し女将は笑い、「変わっていないね」と言い話を続ける。
「元々 実家がこの旅館だったの...医者になったのは ここらへんは田舎過ぎて 近くの病院に行くのに一時間弱はかかるから 高齢化も進んでいる地域だったし 私が医師免許を持てば少しは診察や病院に行くときある程度は説明できるんじゃないかと思って まあ しばらく病院勤めをしていたけど...」
と笑っている。
すると、何か青ざめた表情になり腕時計をチラリとみて、「あ まだ仕事があるから...」と言いどこかに向かって行った。
「君...女将さんと知り合いかい?」
政治家の男が後ろから、問いをかける。彼は自販機前のソファに座りブラック缶珈琲を飲んでいた。(大人の嗜みかのような飲み方で)
「彼女が医者...?」
男は少し自分の記憶とすり合わせるような表情をしていた。缶珈琲を少し飲み、ソファから立ち上がり僕に近づく。
「君...彼女と恋仲なのかい?」
「彼女?女将さんの事ですか?いえ違いますよ」
「知り合いか何か?」
「いえ 先生 いや女将さんは命の恩人です 僕を病気から救ってくれた」
男はまた違和感を覚えたような表情をしている。僕を何か疑うかのような、彼の記憶も疑うような...男は続ける。
「彼女が医者なはずはないぞ...」
「え...?」
男は少しため息を吐き、何かを察したようで自販機に向かい冷えた瓶コーラを買って、ラッパ飲みをする。その様子をみて、僕は喉仏を上下に動かした。それを感じたのか男は財布から小銭を取り出し、同じコーラを買ってくれた。
「奢りだ...若いの」
と僕に渡してくれた。冷えたコーラが乾いた喉を潤していくように感じながら、がぶ飲みしていると。
「ところで さっき温泉でお前に聞いたこと覚えているか...?」
とまた、男から疑問が投げられた。
「いやな記憶や記録はないか...?」
「そうだ... ここの旅館は政治家や医療関係者や芸能界 ポリ公に人気なんだ...どうしてかわかるか?」
政治家の男はそう言い、僕は軟弱な脳みそでしばらく考えたが景色が良く、自然豊か、サービスがとても良い(交通の便は最悪だけど)くらいしか思いつくことがなかった。
「自然が豊かでリラックスできて嫌なことを忘れられるからですか...?」
僕は絞り出すように答えたが、男は答えを否定し「それならここの旅館でなくても良い」と言うが「最後の一割は正解」と謎の答えを出した。
「忘れられるというのは正解だな...」
「は...?」
意味が理解できなかった。「忘れられる」?どういう意味だ?
「ここの旅館の奥に小さな湖がある...昔 それを飲んだ馬鹿がいたんだとよ...そいつどうなったかわかる?」
と男が突然意味が分からないことを言い始めた。だがそれの答えを聞いてはダメなような気がした。いや勘というか、何か、身体が答えるなと言わんばかりに身体が震え始め体温が下がるのが分かった。
「お前も飲んでるのか...『食塩水』を...」
と意味が分からないことを呟き男はどこかに向かって行った。
震えが止まるのを待ち、ソファ―に座りしばらくぼーっと天井を見つめていた。
(そういえば あの事故の「身元不明」ってまさか...)
震えが止まったのを確認して、僕は部屋に戻ろうとしたが、男が自販機で何かを買おうとしていた。
(どんだけ 喉乾いているんですか...?)
男は脂汗か冷や汗をかいていた。少し落ち着きがない様子で自販機でビールを買い、売店で週刊誌と煙草とミネラルウォーター?を買っていった。
「部屋内は禁煙だよ...」
と売店のおばあさんは言っていたが、煙草とビールを握りしめて部屋にそさくさと戻っていった。売店のおばあさんはこちらを見るなり。
「おや 坊や 外が暗くなる前に早く部屋に戻りなさい 妖怪が出るよ...頭を食われておバカになるよ...」
と優しそうに言う。
「おばあさん妖怪って何です?」
「あんた髪が少し濡れているね...温泉に入ったなら看板に書いてあったんじゃない?」
温泉には確かに看板があった。だが、「妖怪伝説」としか書いてなかった。いや書かれたいたが何者かに綺麗に消されているような感じだった。
「書いてあったけど「妖怪伝説」としか書いてなかったですよ?」
「あれま...」
と売店のおばあさんは少し顔を青ざめたがすぐに明るくなりこう言った
「ここの旅館は古いからね...坊や何か買うかい?」
と何かはぐらかされたように感じる。
「あの子も妖怪に食われたから...」
とポツリと何かおばあさんはつぶやいた。
僕は何も言わずに、ハイボールとチョコレートを買った。
「あんた 成人してたのかい 高校生ぐらいにしか見えんよ」
「よく言われます」
と僕は少しの違和感と「妖怪」に関する疑問を感じながら部屋に戻った。
しばらく、部屋でスマホを触っていたら、とあることが気になった。
(僕はどうやってここまで来たんだろう)
もちろん、この時はバイクで来た事は覚えているが、その前は覚えていない。「忘れ」ている。身体が少し震え始め、汗をかいていた。なぜかはわからないが、僕は地図アプリを起動し、この旅館と道を調べていた。ストリートビューで道を調べてみると突然、旅館の近くの町も含め半径5キロメートルにわたりストリートビューは消えていた。いや、地図上ではここの一帯だけが「名前」すらない。もちろんこの旅館も
「現実にはあるが書面上実在しないことになっている」
突然、部屋の扉が開き、女将が生色を感じないほどの顔色で立ってそう言う。
「夕飯を持ってきました...」
「そういうのは仲居さんがやるのでは...?」
女将は僕の問を無視し、話を続ける。
「あの男から 話を聞いた?」
「話...?」
「ここの旅館は政治家 芸能界 医療関係者 警察 そして犯罪に手を染めた物に人気だと...」
「...!!」
男から聞いた話と少し違う。政治家、芸能界、医療関係、警察まではあの男から聞いた。だが犯罪者、までは聞いていない。
「犯罪者?」
「あ...そこまでは聞いていないのね...だから あいつ ...死...を見...顔...青...め...か」
と女将が呟く。
「私も 犯罪者と一緒よ...医療ミスをして記憶と記録を妖怪に食わせたから...」
すると、女将は水が入ったコップを飲み、僕に接吻し何かを飲ませた。
記憶上、この水が『食塩水』のように酸っぱく血圧が上がるような味がした。ただそれだけ、お酒でもなく真水ではない。何かが僕の体内に入っていった。
「私を忘れて...」
その日の夜、その後 僕がどうなったか僕がどうしたのかは覚えていない。ただ何かが頭の中で喰っているような咀嚼音が鳴り響いていた。
朝日がまぶしくて、起きると僕は綺麗な布団で寝ていた。上半身をゆっくり起こし、寝ぐせが凄く揺れているのが分かる。気が付くと浴衣は脱いでいて部屋の明後日の方向にあり、僕は裸だった。
(昨日長時間バイク運転してたから腰が痛いな...)
と服を着て、歯磨きをしながら、部屋の窓を見ると古い車が出て行っていた。
(ずいぶん古い車だな...デザイン的に一九六〇年代か...)
運転手が何か慌てて出て行ったなと思いながら僕はシャカシャカと歯を磨いていた。荷物から一冊のメモ帳がストンと落ちた。
(あ、そういえば、行きたい所メモってたんだった。)
メモは消えていた。いや誰かに消されていたようだった。僕は肩を落としたがメモを書いた記憶は確かにあった。
「まぁ いっか近くの湖が確か なかなか景色が良いって口コミに書いてあったんだよな...なぜか写真はないけど...」
僕は荷物とバイクプロテクターを着て、チェックアウトに向かった。
受付は二十代後半の女性で多分着物的に女将さんだったと思う。なぜかずっと赤面で恥ずかしそうにしていた。
「あの...もう来ないでね...」
その女性からそう言われた。
この記録は僕がかすかな記憶で構成したものです。実際にこの旅館があるのか、どうか僕にはわからないです。




