漂白される自我 ― 聖域の空と、欠落のルミナンス
目覚めた時、視界を支配していたのは、帝都の「完璧な青」とは異なる、どこか霞んだような、不自由で優しい空の色だった。 東の聖域、アルカディア。 浮遊島を支える魔力機関の重低音が、遠くで心臓の鼓動のように響いている。 俺は、簡素なベッドの上で身体を起こした。 全身を走る鈍い痛みは、昨夜のジャックとの死闘が幻ではなかったことを告げている。だが、肉体の痛み以上に俺を苛んでいたのは、脳内に広がる「白すぎる空白」だった。
(……思い出せない)
昨日、俺は確かに何かを失った。 それは、フィリップという英雄人格を「上書き」するための代償。 例えば、子供の頃に好きだった花の名前。あるいは、帝都で暮らしていた頃の、友人との他愛ない会話の記憶。 それらが、水面に落ちたインクが拡散するように、ゆっくりと、しかし確実に漂白されている。
『――精神ログ:真白悠真の記憶領域、セクタ4から9に修復不能な破損。代償としてフィリップとの同調率が12%向上しました。おめでとうございます、あなたはより「完璧な王」に近づいています』
枕元に置かれたジュージュが、朝の挨拶代わりに残酷な事実を突きつける。 「……おめでとう、か。皮肉にもなっていないな、ジュージュ」
俺の声は、自分でも驚くほど冷えていた。 部屋の扉が開き、セラフィーヌが入ってくる。 彼女は俺の顔を見るなり、抱えていた洗面器を落としそうになりながら駆け寄ってきた。
「フィリップ! 起きたのね……! 顔色が悪いわよ。やっぱり、あんな無茶するから……」
彼女の指が、俺の頬に触れる。 その温もりに安堵する一方で、俺の理性が、彼女の「名前」さえもいつか忘れてしまうのではないかという恐怖に震える。
「大丈夫だ、セラフィーヌ。……少し、外の空気を吸いたい」
「ええ……。カイトたちが案内してくれるって。ここならアンドレの監視も届かない。ゆっくり休んでいいのよ」
彼女に肩を貸してもらい、外へ出る。 そこには、俺が知る「最適化された世界」の対極にある光景が広がっていた。 無秩序に増築された廃材の家々。 システムから「無能」の烙印を押されたイナクティフたちが、地面を耕し、壊れた機械を弄り、時には大声で笑い合いながら生きている。 効率も、確率も、生存戦略さえも度外視した、ノイズだらけの理想郷。
「よう、フィリップ。いいや、真白悠真って呼んだ方がいいか?」
カイトが、汚れた手でゴーグルを上げながら近づいてきた。 彼の背後には、昨夜の列車で共に戦ったハンスとミラの姿もある。
「……悠真、でいい。今はな」
「ははっ、いいツラしてるぜ。あんたのおかげで、俺たちは『ゴミ』として処理されずに済んだ。……なあ、悠真。あんたはこのアルカディアを見てどう思う? システムの外側にある、このガラクタの山を」
俺は、遠くで子供たちが泥だらけになって遊んでいる姿を見つめた。 アンドレの管理下では、子供の教育は遺伝子レベルで決定され、遊びさえも能力開発のプログラムの一部だ。 ここにあるのは、計算できない「自由」と、それゆえの「不確かさ」。
「……美しいと思う。俺がかつて捨て去ったものが、ここにはすべて揃っているようだ」
「なら、あんたもここに居りゃいい。使徒の戦争だの、世界の再構築だの、そんな面倒なことはアンドレに任せてよ」
カイトの言葉に、一瞬だけ心が揺らぐ。 もし、このまま「真白悠真」としてここで朽ちていくことができれば。 記憶が消える前に、彼女との穏やかな日々を積み重ねることができれば。
だが、右眼の視界に、無情なカウントダウンが重なる。
『――演算続行。メテオール落下の臨界点まで、残り360時間。アルカディアの座標は、最初の消去対象に含まれています。逃げ場はありません』
俺は、自分の拳を強く握りしめた。 聖域など、どこにもない。 この「ノイズ」に満ちた愛すべき場所を守るためには、俺は俺であることを捨て続け、戦い続けるしかないのだ。 空を見上げると、高高度にある管理衛星の光が、まるで俺を嘲笑うかのように瞬いていた。 アルゴリズムは、俺の絶望さえも「必要なプロセス」として処理しているのかもしれない。
「カイト。……悪いが、長くは休めそうにない」
「……だろうな。あんたの目は、まだ戦う王様の目だ」
カイトは寂しげに笑い、俺の背中を叩いた。 俺はセラフィーヌを見る。 彼女は、何も言わずに俺の外套を差し出してきた。 その蒼い布地は、昨夜の血と光に染まり、より深い色を湛えている。
(記憶を、記録に上書きしてでも。俺は、この『エラー』を愛し抜く)
俺は悠真としての意識を、心の最も深い場所――アンドレさえもアクセスできない「絶対領域」へと押し込んだ。 立ち上がる。 背筋を伸ばし、尊大に顎を引く。 「……フッ。セラフィーヌ、何を悲しそうな顔をしている。オレの辞書に『休息』という文字はない。王とは常に、王道の最果てを往く者なのだからな!」
言葉が放たれた瞬間、真白悠真の繊細な憂鬱は、フィリップの傲慢な輝きによって白く塗りつぶされた。 俺はもう、自分を騙すことにも慣れてしまった。 聖域を包む朝日は、どこまでも明るく、そして冷酷だった。




