新しい朝 ― 希望に上書きされた世界
眩しさに、瞼を押し上げられた。
視界を埋め尽くしたのは、計算された透過度を持つシミュレーションの空ではない。どこまでも不均一で、どこまでも無秩序な、本物の青だった。 風が吹いている。 その風には、湿った土の匂いと、遠くで咲く名もなき花の香りが混じっていた。かつて俺――真白悠真が設計局のモニター越しに眺めていた「理想の風景」よりも、ずっと解像度が低く、けれどずっと鮮やかな現実だ。
(……ああ、そうか。俺たちは、勝ったんだな)
俺はゆっくりと上体を起こした。 身体は鉛のように重い。それもそのはずだ。俺の脳内にあった膨大なシステムデータ、管理権限、そして「真白悠真」としての輝かしいキャリア。それらすべてを破棄コードとして燃やし尽くし、ただの「一人の人間」としてこの世界に再ログインしたのだから。
「……あれ? 起きたの、バカ王子」
すぐ傍から、聞き慣れた声がした。 振り向くと、そこには朝日を背に浴びて、髪を無造作に束ねたセラフィーヌが立っていた。彼女の頬にはまだ昨日の戦いの汚れが残っていて、その服もボロボロだ。 けれど、彼女の瞳に宿る光は、100億ノヴァの魔力よりも強く俺を射抜いていた。
「セラフィーヌ……。俺は、生きているのか?」
「当たり前でしょ。私が地獄の果てまで追いかけて、あんたのデータを引っ張り出してきたんだから。……感謝しなさいよね」
彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。 その笑顔を見た瞬間、俺の胸の奥に残っていた最後の「フィリップ」の残響が、豪快に笑い飛ばしたような気がした。 『――おはようございます、悠真。……いえ、これからは「管理者」の肩書きは不要ですね』
足元に転がっていた通信盤――ジュージュが、小さな音を立てて起動した。 アンドレの監視コードは消え、システム本体も崩壊した。今のジュージュは、ただの「話し相手」としての機能しか持たない、ただの小さな機械だ。
「ジュージュ。……これからの世界の『予定表』は、どうなっている?」
『検索中……。該当データなし。……悠真、この世界にはもう、あらかじめ決められた運命も、最適化された未来も存在しません。これからのログは、あなたたちが一歩歩くごとに、新しく書き込まれていくことになります』
「……予測不能、か。設計員としては最低の評価を下すべき状況だな」
俺は苦笑し、セラフィーヌが差し伸べてくれた手を取った。 彼女の手は温かく、少しだけ震えていた。その震えこそが、生きている証だ。
秘密の館は消え、ラ・シテ・デュ・ゼニスの廃墟の向こうには、かつて「無能」と呼ばれた人々が新しい街を作ろうと動き始めているのが見えた。 管理も、序列も、絶望のシステムもない。 あるのは、自分たちの足でどこへ行くかを決められる、残酷なまでに自由な明日。
「ねえ、悠真。これからどうする? 記憶、また探しに行く?」
「いや。……過去のデータを探すのはもういい。それよりも、新しいデータを書き込む方が忙しくなりそうだ」
俺は彼女を真っ直ぐに見つめ、一歩を踏み出した。 かつて俺が「絶望」だと思っていたノイズ。 それは、この不自由で美しい世界を彩るための、「希望」という名の署名だったのだ。
朝日はすべてを等しく照らし出す。 真白悠真とセラフィーヌ。二人の物語は、今、システムの手を離れ、本当の「第1ページ」を刻み始めた。
(完)




