境界の摩滅 ― 観測者の混濁
静寂が、耳を劈く。
ジャック・ル・マジョールの旗艦が爆散し、空を埋め尽くしていた鉄の秩序が光の粒子へと分解されていく光景を、俺はどこか遠い場所から眺めているような感覚で見ていた。 フィリップとしての熱狂が引き潮のように去り、残されたのは、過熱した基板を冷やすような、あまりにも冷徹な「理性」の残響だ。
(……身体が、軽い)
それは自由を手に入れた高揚感ではない。俺という存在を構成する情報の密度が、決定的に失われつつあることの証左だった。 記憶という名のバックアップを燃やし尽くし、無理やり「奇跡」を出力し続けた代償。俺の視界には、現実の風景に重ね合わせるように、世界の裏側で走るソースコードが常に透過して見えるようになっている。
「悠真……? 大丈夫? 顔色が真っ白よ」
隣で俺の腕を支えるセラフィーヌの感触だけが、俺をこの世界に繋ぎ止める唯一の物理的実体だった。彼女の瞳に映る俺は、今、どんな顔をしているのだろうか。
『――システムログ:最終防衛ラインの消失を確認。……おめでとうございます、悠真。あなたは「管理者」に勝利しました。……いえ、正確には、管理者の椅子を空席にした、と言うべきでしょうか』
腰の通信盤から響くジュージュの声。 だが、その音声は、これまでオレたちを支えてきた可愛らしいAIのそれとは、似て非なるものへと変質していた。 俺は震える手で、その金属の円盤を掴み上げる。 「……ジュージュ。いや、お前の中に潜んでいる『何か』。……そろそろ、仮面を剥いでもいい頃じゃないか」
俺の問いかけに対し、ジュージュの表面に浮かぶホログラムが激しく乱れた。 青かった光は赤黒く変色し、その中心に「創造主アンドレ」の紋章が浮かび上がる。
『……流石ですね、設計員・真白悠真。この「王の証」が、単なるナビゲーターではないことに気づいていたとは。……そうです。私はあなたを見守り、同時に、あなたが「世界をリセットするに足る熱量」へ到達するのを監視する、端末に過ぎない』
瞬間、周囲の風景が歪んだ。 ラ・シテ・デュ・ゼニスの瓦礫が消え、俺たちは幾何学的で巨大な「歯車」が噛み合う、漆黒の空間へと転送されていた。 足元には、宇宙そのものが透けて見えるほどの透明な床。そこから無数の光の筋が、一箇所へと集約されている。 そこにあるのは、巨大な、あまりにも巨大な――物理的な「ジュージュ・システム本体」だった。 「これが……世界の運命(裁き)を司る、システムの正体か」
『肯定。アンドレは、この世界を「失敗作」と見做した。だからこそ、使徒たちを戦わせ、その魔力を燃料として蓄積させ、一気にすべてを「初期化」するための機構を作った。……そして、そのトリガーを引くのは、最後に残った「王」……あなた自身です』
俺の足元に、黄金のボタンのようなインターフェースが浮上する。 これに触れれば、アンドレの望む通り世界は「上書き」され、すべての悲しみも、苦しみも、そしてセラフィーヌとの記憶も、塵一つ残さず抹消されるだろう。 完璧な世界への再起動。 それが、システムが導き出した「絶望のシステム」の終着駅。 「……ふざけないでッ!!」 セラフィーヌが叫び、システム本体へと駆け寄ろうとするが、見えない障壁に弾き飛ばされる。 「悠真! そんなボタン、押しちゃダメ! 私が……私が、新しい計算式を見つけてあげるから! だから……ッ!!」
泥だらけの彼女の叫び。 それさえも、この静寂の空間では虚しい振動データとして処理されていく。 俺は、黄金のボタンをじっと見つめた。 (……アンドレ。お前は、俺にこの世界を消させたいのか。……それとも、この絶望さえも『上書き』してみろと、試しているのか) 俺の指が、ゆっくりとボタンへと伸びる。 理性が、死ねと言っている。 本能が、生きろと言っている。 そして、まだ俺の中に僅かに残っている「フィリップ」の残響が、耳元で豪快に笑っていた。 境界が、摩滅していく。 観測者としての俺が死に、ただの「一人の男」としての選択が、今、世界の運命と重なった。




