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棄却された感情 ― 計算外の体温と、王道の代償

静寂は、時としていかなる爆音よりも雄弁に絶望を語る。  帝都を脱出し、東の聖域へと続く原生林の奥深く。魔導列車の線路沿いにある打ち捨てられた待合所に、俺たちは身を潜めていた。    先刻までの熱狂が嘘のように、全身を刺すような寒気が襲う。  フィリップという人格が表舞台で振るった暴力的なまでの魔力。その余波は、真白悠真というオリジナルの人格に、耐え難い倦怠感と「自己の欠落感」を強いてきた。


(……あれは、本当に俺だったのか?)


 掌を見る。そこにはまだ、ボルドの魔導アーマーを粉砕した際の、非論理的なまでの万能感の残滓がこびりついている。  だが、俺の脳は冷静に分析を続けていた。  あれは俺の力ではない。俺が「システム」に対抗するために作り上げた、英雄という名の理想的な「プログラム」が自動実行された結果に過ぎない。  俺が王道を叫ぶたび、真白悠真という人間が、摩耗し、消えていく。


「……う、ん……」


 隣で、膝を抱えて眠るセラフィーヌが小さく身悶えした。  火を焚くことはできない。監視の術式が熱源を感知すれば、数分と経たずに追手が差し向けられるだろう。  彼女の吐息は白く、その震える肩は、彼女が「無敵のヒロイン」などではなく、ただの脆弱な少女であることを残酷に物語っていた。


『――環境ログ:外気温、マイナス4度。対象・セラフィーヌの生存維持能力が低下しています。推奨される処置:体温の共有、または「フィリップ」による魔力障壁の展開』


 ジュージュの無機質な声が、暗闇の中で響く。  俺はためらい、そしてゆっくりと彼女に近づき、外套の端を掛けた。  彼女の細い肩に手が触れる。  その瞬間、俺の脳内に凄まじい量のエラーログが走り抜けた。


(温かいな……)


 ただの熱伝導現象だ。物理的な現象に過ぎない。  それなのに、この「体温」という不確かな情報が、俺の論理回路を激しく揺さぶる。  アンドレが管理する世界では、愛も、温もりも、すべては数式で置換可能だ。だが、今この瞬間に感じている胸の痛みだけは、いかなるアルゴリズムも予見していなかった。


「フィリップ……。行かないで……」


 寝言。  彼女が呼んでいるのは、俺(悠真)ではなく、俺の中にいる「架空の英雄フィリップ」だ。  その事実が、暗い水底に石を沈めたような重苦しい波紋を、俺の心に広げていく。


「……俺は、ここにいる。セラフィーヌ」


 それは、誰に届くこともない独白。   『――システム診断:真白悠真の「嫉妬」に酷似した精神波形を確認。警告。不要な感情リソースの消費は、次なる戦闘における演算精度を著しく低下させます。感情を棄却デリートしてください』


「黙れ、ジュージュ。……お前には、解らないのか。この『矛盾』こそが、人間が生きている証なんだ」


『理解不能です。人間とは、生存と生殖の確率を最大化させるための、高度な生体機械に過ぎません』


 ジュージュの言葉は正しい。正しすぎて、吐き気がする。  かつて俺自身がその思想に染まり、この世界の設計に携わっていたからこそ、その冷徹さが身に染みる。    窓の外を見れば、遠く帝都の空に「裁きの流星メテオール」が淡く尾を引いているのが見えた。  アンドレのリセット計画は、着実に最終段階へと移行している。  使徒同士が殺し合い、その果てに生まれる純粋な魔力を燃料にして、この世界は一度「なかったこと」にされる。  そこに住まう数億の命も、この少女が今日流した涙も、すべては計算機のキャッシュメモリのように消去されるのだ。


(それを止めるために、俺は『フィリップ』になったはずだ。なのに……)


 俺は、彼女の寝顔を見つめる。  もし、世界を救う代償として、俺という人格が完全にフィリップに上書きされてしまったら。  俺が彼女を想うこの「言葉にできない苦しさ」さえ、英雄の物語を彩るための「設定」に変わってしまうのではないか。


 夜の帳が、さらに深く俺たちを包み込む。  管理社会の灯火は届かない、暗く、冷たい、けれど自由な闇。    俺はそっと、彼女の冷えた指先を握った。  アルゴリズムが弾き出した「正解」を拒絶し、俺はあえて、この不合理な痛みを抱きしめることを選ぶ。


「……いつか、この物語が終わる時。俺が俺として、君の隣で笑える確率は……ゼロなんだろうな」


『――演算結果:0.000000001%以下。限りなく無に等しい数値です』


「そうか。……なら、上等だ」


 俺は瞳を閉じ、フィリップという怪物に意識を明け渡す準備を始める。    夜明けまで、あと数時間。  次に目を開ける時、俺は再び、全能にして傲慢な「王」として、セラフィーヌに微笑みかけるだろう。  真白悠真という名の中にある「恋」という名のエラーコードを、心の奥底に封印して。


 森の奥で、魔導列車の汽笛が遠く響いた。  それは、終わりの始まりを告げる弔鐘のようだった。

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