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乖離する事象 ― 観測者の混濁、あるいは不確定な抱擁

視界の端で、数式が雪のように降り積もっている。


 激闘の後の「アルカディア」は、死んだように静まり返っていた。ジャックの旗艦は撤退し、空を埋め尽くしていた光杭も消えた。だが、俺――真白悠真の脳内では、未だに処理不能なエラーログが高速で流れ続けている。  フィリップとして振るった「未来永劫」の力。それは、確定した絶望を回避するために、まだ存在しない時間を力ずくで現在へ引き寄せる、禁忌の演算だった。


(……感覚が、遠い)


 自分の手のひらを握っても、そこにあるはずの肉の感触が、記号的なデータとしてしか認識できない。  俺は今、現実という名のシミュレーションを外側から眺めているような、致命的な「解離」の中にいた。   『――意識レベルの低下を検知。悠真、応答してください。あなたの精神基盤アーキテクチャは、先ほどの高次演算によって深刻な損傷を受けています。……このままでは、あなたは「観測者」としての機能を失い、この世界から完全に浮き上がってしまう』


 ジュージュの声さえも、今は劣化した音響データのように聞こえる。  俺はふらつく足取りで、焚き火のそばに座り込むセラフィーヌの元へ歩み寄った。    彼女の身体は、先ほどの俺の力によって「存在」を固定された。霧のように透けていた輪郭は戻り、確かな実体を取り戻したはずだった。  だが、俺の目に映る彼女は、先ほどまでとは決定的に何かが違っていた。


「……悠真? どうしたの、そんな幽霊みたいな顔して」


 彼女は微笑む。  だが、その声。その表情。  俺の脳が弾き出す解析結果は、残酷な真実を告げていた。   (――違う。これは、俺が知っているセラフィーヌではない)


 「未来永劫」という力で彼女を固定する際、俺は無意識のうちに、俺の記憶の底にある「理想のセラフィーヌ」のデータを、現実の彼女に上書きしてしまったのではないか。  目の前にいる彼女は、完璧にセラフィーヌだ。だが、かつてシステムの予測を裏切り続けたあの「ノイズ(最大級の変数)」としての輝きが、今の彼女からは致命的に欠落しているように見えた。


「……ああ、少し疲れただけだ。セラフィーヌ、君の身体……もう、透けていないな」


「ええ。あんたが助けてくれたんでしょ。……ありがとう、王子様」


 彼女が俺の手を握る。  温かい。  だが、その温かささえも、最適化されたプログラムが提供する「偽りの安らぎ」のように感じられて、俺は反射的にその手を振り払いそうになった。


(俺は、彼女を救ったのではない。俺という観測者の都合に合わせて、彼女を『修正』してしまったのか?)


 空を見上げれば、そこには星など一つもなかった。  あるのは、俺の混濁した意識が作り出した、幾何学的な光の羅列だけだ。    風景が、叙情性を失っていく。  風の音はホワイトノイズに、土の匂いは化学式の羅列に。  世界を上書きした英雄の末路は、世界そのものから拒絶される「孤独な神」への転落。    俺は、自分の中に残された最後の一欠片である「真白悠真」の自意識を必死に掻き集め、虚無の淵で踏みとどまろうとした。


『警告:周辺事象の解像度が低下しています。悠真、しっかりしてください! あなたが認識を放棄すれば、この世界そのものが崩壊します!』


「……分かっている。……だが、俺が見ているこの世界は……本当に、彼女が望んだ明日なのか?」


 独白は、冷たい情報の海へと沈んでいく。    静寂の中で、俺を呼ぶ彼女の声だけが、バグのように繰り返されていた。  その声が、本物の彼女のものなのか。  それとも、俺の脳が見せている最後の幻覚なのか。  それを確かめる術を、今の俺は持っていなかった。

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