アルゴリズムの葬列 ― 新しい朝、あるいは未完のプログラム
すべての演算が終了した。
『秘密の館』を構成していた漆黒のデータ群は、純白の粒子となって霧散し、空を埋め尽くしていた管理衛星の網も、夜明けの光に溶けて消えた。 俺――真白悠真は、崩壊する意識の最深部で、静かに自分の心音を聞いていた。
世界上書き(リライト)。 それは、システムの一部であった俺自身を、修復不能な「破棄コード」として世界の根幹へ打ち込む行為だった。設計員としての俺が培ってきた知識、フィリップとして築き上げた物語、そして……今日まで積み上げてきたすべての記憶。 そのすべてが、代償として情報の海へと流出していく。
(……これで、いいんだな)
目の前には、透けかかったアンドレの残像が立っていた。 全知全能の神を自称した男は、今はただ、自分の設計図が破り捨てられたことを呆然と見つめる一人の老人に過ぎなかった。
「悠真……君は、自ら『無』になることを選んだのか。個としての連続性を捨て、ただ一つの可能性を救うために……」
「……アンドレ。俺たちが求めた完璧な世界は、ただの静止画だった。死んでいるのと変わらない、美しいだけの地獄だ。……俺は、泥にまみれても、間違え続けてもいい。……心臓の鼓動が、次の秒数を『予測できない』世界が欲しかったんだ」
アンドレの姿が消える。 同時に、俺の視界も急速に漂白されていった。 名前。年齢。昨日食べた食事の味。 セラフィーヌと出会った場所。彼女に贈った言葉。 重要なデータから順番に、指の間からこぼれ落ちる砂のように消えていく。
『――システム・ファイナライズ。真白悠真の「個体情報」の99.9%が削除されました。……悠真、あなたはこれから、自分の名前さえ持たない「空白」として生きていくことになります。……それでも、後悔はありませんか?』
ジュージュの最後の問いかけ。 俺は、消えゆく意識の中で、微笑んだ。
(……後悔? そんな高度な感情、今の俺にはもう「定義」できないよ)
ただ、一つだけ。 魂の最深部、消去不能なセクタに焼き付いた「熱」があった。 暗闇の中で俺を呼び続け、何度も、何度でも俺を見つけ出すと言った、あの少女の歌声。 それさえあれば、俺は何度だって、俺を始められる。
「……ま、……しろ……」
遠くから、誰かが俺を呼ぶ声が聞こえた。 温かな、涙の匂いがする風が吹く。 俺はゆっくりと目を開けた。
そこは、秘密の館があった場所ではない。 かつて「東の聖域」と呼ばれた、イナクティフたちが集う緑豊かな草原だった。 空は高く、管理されていない不規則な雲が流れている。
「……ゆうま!!」
桃色の髪をなびかせ、彼女が駆けてくる。 俺は、彼女が誰なのか、正確には思い出せない。 彼女とどんな約束をしたのかも、今の俺には「未定義」のままだ。 だが、彼女が俺の胸に飛び込んできた瞬間、俺の頬を伝ったのは、理由のわからない熱い雫だった。
「……ああ。……おはよう、セラフィーヌ」
言葉が、自然と口をついて出た。 管理された絶望のシステムは死んだ。 ここに残されたのは、記憶を失った一人の男と、彼を愛し続ける一人の少女。 そして、何一つ保証されていない、無限の「明日」だけだ。
第30話。 第一部『覚醒と逃亡』完結。 世界は上書きされた。 しかし、これは終わりの物語ではない。 絶望のシステムを希望に塗り替えた二人が、本当の意味で「人間」として生きるための、叛逆と再構築の旅路が、今ここから始まるのだ。




