灰色のアーカイブ ― 破棄された記憶、あるいは最初の嘘
思考が、薄い膜を透過するように拡散していく。
『真理の門』を突破した瞬間、世界から一切の色彩が剥落した。 視界に広がるのは、無限に続くクリスタルの本棚のような構造体。そこには、アンドレが「無価値」としてパージしてきた、この世界のあらゆる可能性の残骸が収められている。 かつての俺なら、この膨大なデータベースを前にして、設計者としての知的好奇心に震えたかもしれない。だが今の俺には、それらを確認するための索引すら残っていない。
(……静かすぎる。ここには、時間の概念さえ存在しないのか)
『――事象解析。ここは「秘密の館」中層、記憶の棄て場(ゴミ箱)です。悠真、注意してください。ここではあなたの精神状態がそのまま環境にフィードバックされます。……「空白」である今のあなたは、そのまま消滅して情報の塵に成り下がるリスクがある』
ジュージュの警告は、どこか遠い。 隣を歩いているはずのセラフィーヌの姿も見えない。彼女という強烈な「ノイズ」さえも、この場所の圧倒的な情報密度に呑み込まれているのだろうか。
ふと、一角の書棚から、淡い光が漏れているのに気づいた。 引き寄せられるように指を伸ばすと、そこには一つの記録が浮遊していた。 『――Case-000:真白悠真の「最初の恋」に関する破棄データ』
心臓が、一度だけ冷たく跳ねた。 その光に触れた瞬間、脳内に激流のような光景が流れ込む。
それは、システム設計員としてのアンドレとの会話。まだこの世界が、ただのシミュレーション上の理想郷だった頃の記憶だ。 画面に映る、幼い頃のセラフィーヌ。彼女は、システムが用意した「正解の幸福」をすべて拒絶し、泥だらけになって笑っていた。 「……アンドレ、彼女を消さないでくれ」
若き日の俺の声だ。 「彼女は、このシステムの欠陥だ。だが、彼女がいるからこそ、この世界は『生きている』と感じられるんだ。彼女を、俺の観測対象(変数)として残してほしい」
俺は、彼女を「守る」ために、彼女を「実験体」としてシステムの中に繋ぎ止めた。 それが、真白悠真が犯した最初の罪であり、この物語が始まった「最初の嘘」だった。 俺は彼女を愛したのではない。彼女という異常値の輝きに魅せられ、それを永遠に手元に置くために、この絶望のシステムの一部に組み込んだのだ。
(……そうか。俺が彼女を忘れたかったのは、この罪悪感から逃げるためだったのか)
膝から力が抜ける。 「記憶のない王」という仮面は、自らの醜悪な過去を塗り潰すための、無意識の防衛本能だった。
『――悠真、バイタルが急降下しています。そのログは「猛毒」です。アンドレは、あなたが自分を許せなくなるように、あえてここにこれを置いた。……戻ってきてください、悠真!』
ジュージュの叫び。だが、俺の輪郭は情報の濁流に溶け始め、足元のクリスタルがひび割れていく。 真っ白な空白の中に、黒いインクが広がっていくような感覚。 「……あんた、何やってんのよ」
不意に、霧の向こうから、聞き慣れた怒声が響いた。 セラフィーヌ。 彼女は、いつの間にか俺の目の前に立っていた。 彼女は俺が見ているログを一瞥し、鼻で笑うと、迷いなくその記録を素手で握り潰した。
「そんな昔の、しかもあんたの主観バリバリの記録なんてどうでもいいわ。……あんたが私をどうしてここに連れてきたかなんて、関係ない。私が、あんたを追いかけて、あんたの隣にいることを『選んだ』。それがすべてでしょ」
「……セラフィーヌ。でも、俺は君を利用して……」
「利用された甲斐があったわよ。だって、今こんなに楽しいんだもの。……いい? 過去のあんたがどれだけ冷血な設計者だったとしても、今のあんたは私のバカな王子様なの。……それ以上、何が必要なのよ」
彼女の手が、俺の頬を強く叩いた。 痛い。その痛みが、情報の海に溶けかけていた俺の意識を一気に凝固させる。 ああ、そうだ。 俺がどうあったか、なんてデータはどうでもいい。 彼女が今、ここにいて、俺を「あんた」と呼んでいる。 その現在進行形の事象こそが、神の書棚にあるどんな記録よりも重い。
(……書き換える。俺の過去も、罪も、すべてこの手で)
クリスタルの空間が、激しい振動と共に崩壊を始めた。 最上階から、アンドレの嘲笑のような波動が届く。 記憶の回廊は砕かれ、過去の亡霊は消え去った。 残されたのは、ボロボロになった一人の男と、彼を繋ぎ止める一人の少女。 二人は今、本当の意味で「ゼロ」から、神の座へと続く最後の階段を登り始める。




